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「エイリアンインタビュー」その106・検証とその先へ、モンロー研究所(その先へ・臨死体験)

2017.09.28.21:47






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この3泊4日のモンロー研・ゲートウエィアウトリーチの間に、体脱出来たかというと、私はできませんでしたが、二人、体脱出来た女性がいました。
参加者50数名のすべてと話が出来たわけではないので、もっといたのかもしれません。
一人はヒーラーぽい方、一人は普通の主婦のように一見見える方でしたが、きっと普通の方ではなかったのでしょう。

実際、このセミナーワークでは、体脱出来る周波数までは流すことがない初心者用ですので、本当は体脱できるわけではないのです。
しかし、このお二人は「体脱出来てしまって、体脱してやることがなかったので、出来ないで頑張っている人のそばに行って、引っ張ってあげた。」と言っていました。
もともとそうした要素がある方は、誘導の周波数で飛んで行ってしまうのです。

3泊4日、長いです…
もう本当に研修です。
けっこうきつかったです。
20万お金を払って、飛行機代や様々な経費もかけて、体外離脱したいなんて、酔狂な人間たちですよね.

3日目の夜ともなると、疲れと焦りもピークです。
個人的に人を顧みるゆとりはなく、何とかしてワークの終了までの間に、何とかして結果を出さなければ!というノルマがかかったように頑張っていました。
そんな中で、3日目に与えられたテーマは「創造と表明」というもので、人生を変えたい方向に変えるために、
1、なりたい自分になる未来を創る。
2、表明せよ!とワンブレスする。
というもので…


良くわからないかもしれませんが、未来の自分をなりたい自分に設定して、宣言する、表明するというものです。

そもそも、未来になっていたい自分を想定できなければなりません。
一生懸命考えました。
3つ出てきました。
それをノートに書いたものが残っていました。
ほぼ叶っていました。
2005年ですから12年前です。
12年かけて願望実現したということでしょうか。
まったく忘れていましたが。

このワークで行けるのはフォーカス21まででした。
F21とは、この世とあの世の境目であるそうです。
参加者が共通して好んだのは、フォーカス15と言う周波数です。
F15はデルタ波に近いそうで、私達が睡眠時に漂っていきやすい周波数であるらしいです。
よく眠っている時にアイデアが浮かんだ!とか答えを夢で見た!ということがあると伝えられていると思いますが、このフォーカス15に近い周波数帯で情報が流れるのだそうです。
この情報を流すのは、睡眠時学習の先生たちのようなガイドが行っているらしいです。
フォーカス15に近づいた人ならだれでもキャッチできるため、複数の人が同時に同じ発見をしたりすることが説明できるのだそうです。

私はこのワークで体脱は出来ませんでしたが、このワークに参加した目的は果たされました。
それは、体脱と言うのは、私個人の妄想ではない、と言うことが一つ、まあ、死にかかった…ということが体脱とイコールかどうかという問題もありますが…

けっこうたくさんの人が体の外に出た、という経験を持っているということ。

そして、意識の領域は、個人的なものとは限らず、肉体の感覚からのインプットを鎮めて、内的感覚に集中してみたところで感じる世界は、他の人間たちと共通のビジョンを持っている世界がある、という発見です。
発見です、というか、そこで教えられたわけですが。

つまり!
IS・BEとしての活動の領域が確かにある!ということです。
私達は肉体ではない。
魂だけでもない。
その両方をつないで存在しているということ。
亡くなった時にはその片方を捨てて、IS・BEとしての領域へと旅立つのです。

そこで、疑問が湧いてきます。
そのIS・BEとしての領域とは、どのようなものか?
よく宗教などでとかれている「あの世」と言う世界なのか?

もし、自分がIS・BEとして体の外に出たとしたら、それがどういういきさつでの状況であっても…それはどのように感じられる世界なのか?という疑問です。

それを少しだけ説明できる話をしたいと思います。
それは、死んであの世に行った、と言う体験をしてから、いろいろと調べ、学び、聞いて回っていた私が、ロバートモンロー氏が書いたこの本に出会い、続きの本も読み、またお仲間である、ロザリンド・A. マクナイト、ブルースモーエン氏などの書かれた本も読み、特にブルースモーエン氏が体脱出来る方法として紹介していた方法を試していた時の話です。

それは、藤崎ちえ子先生のゲートウエィワークに参加する5年くらい前の話になります。
ブルースモーエン氏は、体脱するために体を回転させるようにして、転がり出る、と言う方法を紹介されていました。
それを試していたのです。
初めのうちは手だけ出たとか、足だけ出たとか、下半身だけ帯のようにそよいだとか、と言う感じで、なかなかうまくいきません。
頑張っているうちに眠ってしまいます。
そうこうしているうちに、体育の時間にやった前転後転のように転がる、と言う方法がうまく行き来そうになってきました。
転がって出た!と思ったら戻っていつの間にか寝ていたなんてことはざらです。
そんなある日の夜…
振動が起こり、肉体から離れて回転できそうな気がしました。
思い切ってぐりん!と大きく前転しました。
そして立ち上がりました!
驚くべきことに!立ち上がりました!

「あ、出た…デタ…わー!!でたあ!!」って感じです。
夜の12時は過ぎていたと思います。
無論部屋の中は真っ暗で、室内を観察しようとしましたが、うまく行きません。
いや、今、自分は肉体の目で見ているわけではないのだから、何か感じ取れるはずだと、集中してみます。
感じとれるのは、テレビが終わった後につけたままにしていると、砂の嵐と呼んでいたザーッと線が流れるような映像が見えたのを覚えている方もいらっしゃると思いますが、あんな感じで、周囲の全体が白黒の筋でザーと電波干渉があるように流れています。
音は無音です。

まず、自分の体を見てみようとしました。
自分の姿は…
光る人の輪郭でした。
内部は暗いのです。
輪郭が人の形で光っています。
それも所々、色が異なり、左手を見てみると、ある部分の輪郭は青く、ある部分の輪郭は赤く、ある部分は黄色い所がある…という見え方でした。
ぞくに言われているチャクラの色と関係しているのでしょうか?
未だによくわかりません。

そして部屋を見て見ます。
この時、部屋には私だけでした。
おいてある家具が、これまた輪郭が浮かんで見える感じです。
光ってはいず、ぼんやりとしている形…
大体は部屋に置いてある家具の通りでしたが、1点だけ違っていた部分があります。

それはベランダの左側にあるボックス型の収納が、あるのになかったのです。
私は突っ立ったまま、あるはずのボックスを確認しようとして、何度も集中しました。
しかし、ないのです。
この時は引っ越しして間がなく、ボックスの内には何もない状態でした。
そのためだったのでしょうか…わかりません。
体脱して出た世界には、このからっぽの収納ボックスがありませんでした。

私がこの世界が多次元と言うか、重なり合って位相の異なる世界が複数あるのかもしれないと思うようになったのは、これが原因です。
もしかすると周波数…
少しずれた世界では、こちらのある何かがないとか、こちらにない何かがあるとか、そんな現象があるものなのかもしれない。
私達は日常でも、こういった位相のずれた世界を無意識に行ったり来たりすることもあるかも知れません。
そんなことを考えています。

それはきっと、夢を見ていたからだよ、と言う方がいるかもしません。
かまわないと思います。
証明などできるものではないし、解明できるともいえません。

ともかく話を進めます。
私は自分の感覚に集中してみました。
寝ぼけてはいません。
意識がしっかりあります。
自分が今、ここに立っていると言う感覚があります。
周囲は全くの無音です。
驚くほど思考はクリアでした。
「どうしよう…」
体脱して出たけれど、これからどうしたらいいのか…
正面はカーテンがかかり閉じられたベランダです。
モンロー氏の本や、モーエン氏の本に書いてあった内容を思い出します。
体脱していたとしたら、閉まっているベランダを通り抜けられるはずです。
この部屋は2階にありました。
体脱していたとしたら、落ちないし、飛べるはずです。

しばし考えます。

「そうだ、思い切ってやってみるしかない。」
そう思いました。
何をやるか?
ベランダを通り抜け、飛び立つと言うのをやってみようと思ったのです。
今の自分なら、閉じられているベランダのドアをすり抜けて外に出られるはずだ、
歩いてベランダのカーテンのかかったガラス戸に近づきます。
本当に、思い切って!
小走りで、ベランダに向かいます。
内心はベランダのガラス戸にぶち当たりそうで心臓バクバクでした。
シュタッ!と外に飛び出し、私はその場で手足をばたつかせてパニックになりました。
問題なくベランダをすり抜けましたが、そこは2階です。
「落ちる!」と思ってパニックになり、落ちないようにしようと手足をばたつかせたのです。
落ちませんでした…
パニックが鎮まります。
私のちょうど腰あたりの部分が中心点であるようで、そこが空間にピンで留められているかのように安定しており、私は空中に浮かんでいます。
安心しました。

外には月が出ていました。
月明りで周囲が見えます。
落ちるはずだった下を見ると、潅木が3本、真下に生えていました。
引っ越ししたばかりだったので、ベランダを開けて真下を見ると言うことをしていなかったので、1階に潅木が3本生えているとは知りませんでした。
「朝になったら確認してみることにしよう。」と考えました。
このマンションの右側にもう一つマンションがありました。
それは知っていたのですが、屋根の形まで知りませんでした。
この位置から右側にあるマンションの屋根が見えます。
陸屋根と言うのでしょうか、平らな屋根でした。
「朝になったら、この屋根の形も確認してみることにしよう。」そう考えました。

さてどうするか?
せっかく体脱して外へ出られ、飛べるのだから、宇宙へ行ってみよう!と考えました。
このころは、今ほどUFOとか宇宙人には興味がありませんでした。
他の星へ行ってみたらどんなだろう?と思いました。
行けるだろうか?
飛んで上昇しようと考えます。
すると自然に浮き上がって宇宙へ向かって飛んでいきます。
もう嬉しくって嬉しくって、ハイになりました。

思いきり上昇して行きます。
星々がきらめいて、しかも数が増えて行きます。
飛ぶスピードが上がるごとに眼前は星だらけになりました、
「銀河の中心に向かっているのかなあ。」と思いながら飛んでいきます。
「素敵だ!星だらけだ!星…どの星へ?」

どこかの星へ行ってみたいと思って飛んで行ったのですが、眼前は星だらけになってしまいました。。
もはや星座なんて判別できません。
月は通り越しててしまったようで見えません。
星だらけです。
「どうしよう?どこへ行ったらいいのだろう…星だらけだが、どの星がなんという星か全くわからない…適当に知らない星へ行ってみたら、帰ることが出来るのだろうか?迷子にならないのだろうか?」
とうとう不安が増してきます。

不安のせいでスピードが落ち、とうとう止まってしまいました。
「あーあ、せっかく宇宙へ来られたのに…どこにも行けない。」
諦めて戻ることにしました。
すーっと、真っ直ぐに下へ向かいます。
パタッと、地面に降り立ったら、ずれていました。
そこは自分の住んでいるマンションではなく、ずっと南の方にある、洞爺湖の湖を巡る道の上に立っていました。
「あらら、真っ直ぐに降りたつもりだったのに、ズレてしまった。地球が回転しているからかしら…」
そんなことを考えつつ立っていましたが、ともかく帰るしかありません。
仕方なく、車を運転しているときのように、湖を巡る道路の真ん中をスーッとすべるようにして、覚えている通りに帰還することにしました。
ありがたいことに誰にも出くわさず、車も真夜中で走っていませんでした。
しばらくそのまま道路を滑って移動していましたが、もし、車が走ってきて、私を見たら、幽霊だと思うのではないだろうか?と言う考えが頭をよぎりました。
この道は洞爺湖の湖に沿って走っている道です。
もし驚きのあまりハンドルを切り損ねたら、湖に転落!もあるかも知れないなと考えました。
この方法で家に帰るのはだめだ。
真っ直ぐに家に帰ろうと考えたところ、まるで見えない手をグーンと家までのばし、この場所にいる自分をのびたゴムの片側を外すようにして、ゴムパッチンで手から放したゴムがもう一方へ飛んでいくように、真っ直ぐに家に飛び帰還することが出来ました。
このあとすぐ眠りに落ちています。

翌朝、すっきりと目覚めました。
すべて覚えています。
起き上がるとベランダに行き、カーテンを引き開けます。
ガラス戸も開いて、真下を見ました。
確かに!
潅木が3本、生えていました。
ベランダのガラス戸から首を出して、右側にあるマンションの屋根を見ました。
屋根は確かに!
陸屋根で真平らの形状をしていました。

誰が信じようと信じまいと、これは私にとって真実の…
確かに体脱して体験した…と言える出来事となりました。

同時に、もし体脱してどこかへ行きたいと思ったら、その行くべき場所がどこかを知っていないと行けないのだ、と思ったのです。
あそことか、星とか言っても、それこそ星の数ほどあそこも星もある訳で、そこの名称とか、行くべき場所が何であるか知っている、あるいは思い出した、と言うことがないと、知らない場所には行くことが出来ないのだと感じました。

この体験から、「エイリアインタビュー」で語られている、記憶喪失になったIS・BEたちが故郷へ帰れない理由が納得いくのです。


続く→
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「エイリアン インタビュー」その105・検証とその先へ、モンロー研究所 (その先へ・臨死体験)

2017.09.26.13:06






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こんにちは!
長いエイリアンインタビューにお付き合いいただいてありがとうございます。

本日より、個人的な臨死体験の話に入ります。
私は長い歳月を通じて、私が死んで(と思われた…)行った先への回答を探し続けましたが、答えを持っている人を見つけることが出来ませんでした。

私が体外離脱をして行った場所…そこへ行ったことのある人も皆無でした。
そこは、ある宗教的シンボルを超えた場所です。
もしかすると、あの宗教的シンボルは、私と同じような体験をした人からもたらされたのかも知れないと思うようになりました。
それゆえ、その宗教的シンボルを語ることは必然でありながら、妨害も揶揄もあると思われます。
私は個人的に体験したことを、もしかすると誰かの役に立つかもしれない…そう思って記述しているだけなので、どこかの宗教を批判するとか妨害するとかという意図は全くありません。
それゆえ、内容を改ざんしたり、特定のどなたかの主張に沿って変化させるつもりはありません。
ただただ…起こったことを出来る限り正確に記述するのみです。
事実…と受け止めることが難しい方は、SFと思っていただいてよろしいと思います。
個人的に後に残しておきたいのは、刻々と変化する政治話ではなく、この臨死体験を通じて起きた内面の変化と、想定される私たちの行く末・これから先、私たちはどこへ行くのか、という「問い」を皆様と共有することだけなのです。
それゆえ、「エイリアンインタビュー」シリーズの全部をFCブログでバックアップしています。
後に残すために、無料のブログです。

このブログは、私に「本を書け」と言った、「ゲートウエイエクスペリエンス」の3泊4日のワークに参加し、2日目の夜、談話室に集合した6人の女性たちのために書いています。
私は本は書きません。
WEB本も書きません。
この無料ブログで記録を残すのみです。
本ですと、精神世界に興味がある人しか、書店で手に取られることはないでしょう。
また本であるからには公共性が生じ、公開にふさわしくないと思った部分は削られてしまう可能性が出てきます。
出来る限り起こったことに忠実に、記録を残すことにしか価値はないと思っています。


このブログを、八王子のセミナーセンターで行われた、2005年1月22日~25日の藤崎ちえこ先生(精神科の医師である)のワークに参加し、2日目の夜の談話室に集合した6人の女性たちに捧げます。
いつか彼女たちに届きますように…



藤崎/ちえこ
医学博士。東京医科歯科大学大学院博士課程修了。専攻は精神神経免疫学。心理学修士。米国モンロー研究所公認ゲートウェイ・アウトリーチ・トレーナー、全米催眠協会認定催眠療法士、アプライド・キネシオロジー・ファシリテーター。心理学を研究した後、医学部大学院にて神経免疫学の研究に従事。国内外のさまざまな代替療法を学びつつ、1998年からカウンセリング・ヒーリング活動を開始。全人的療法の考えから、「魂」という概念を取り入れた療法を大切にする。2003年、米国モンロー研究所初の日本人公認ゲートウェイ・アウトリーチ・トレーナーとして日本でワークをスタート。心の森研究所所長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



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2005年1月24日、次のセッションが始まる幕間の時間で、私たちは説明を聞いていました。
フォーカス10くらいから始まり、フォーカス15…
ヘミシンクの振動を体験していました。
互いの体験をシェアする時間であったと思います。
このワークには男女様々50人くらいが集まり、5人くらいづつ10程のグループに分かれて、ヘミシンクのワークを行っていたのです。


ふと視線を感じると、昨日夜に6~7人で談話室に集合し、互いの思いを分かち合う時間を作っていたメンバーの一人のBさんが、真剣な興味深い視線で、私を見つめていました。
その表情はまるでこう言っているようでした。
「ねえ、思いだした?思いだした?」
ひたと私を見つめています。

昨日は、私が自分の臨死体験を語ったことで、他の話の内容がすべて飛び、
「その話を詳しく聞きたい。」
「思い出したら教えて。」
「それはフォーカス35を超えているわ。」
「ぜひ本を書くべきだ。」
等々の話になり、談話室を出る時まで、私は背中をたたかれ、「本を書くべきだ」「思い出したら本を書きなさい。」と言われることになったのですが‥

私は目を伏せました。
「いや…まだ…」
心の中でつぶやきます。

無論、ゲートウエイのセッションは振動数が体脱する所まではいかず、その手前までいくという振動数を扱う初心者のためのものでしたので、体脱が出来るとは限らないわけですが、みなの期待は高く、もしかしたら、行けるかもしれない!という期待感があったのです。

ゲートウェイエクスペリエンスは3泊4日のお値段20万円なりを支払う高額のワークで、参加者は会社に休暇申請を出したり、家族の同意を得たりする必要がある、しかも事前にヘミシンクが入っているCDを購入してヘミシンクに慣れておく作業が必要な、気軽なものではなかったのです。
3泊4日のワークで、なかなか体脱出来ない焦りが渦巻いていました。
私も夫に説明をし、何とか了承してもらっての参加です。

体脱は出来ませんでした。
しかし、この時、いくつか私たちが実は肉体的存在だけのものではなく、魂としてのIS・BEとしての活動領域が共通した領域としてあるのだ、と実感できる体験をいくつかしていました。

私の宿泊用の部屋は二人部屋で、一泊目の夜に見た夢が雪が降るというものでしたが、24日に雪が降りました。
その夢を同室の女性も見ていて、しかもその雪の八王子を、機械生物のような、コンパスのような光る生き物が歩いているという夢だったのですが、同室の鈴木さんも同じ夢を見ていたと後でわかったのです。
同じ領域の情報を共有して感じ取っていたと、私たちは思いました。


5~6人の少人数に分けてグループで体験をシェアしあいながらのワークでした。
グループの男性が、これからしなくてはならない確定申告が嫌で、その書類を溶岩に投げ込んでいるというイメージを浮かべていたそうです。
セッションをするたびに私はよく夢で見るような映像で、溶岩を眺めているシーンが浮かび、その体験をシェアしています。
その溶岩のイメージは数回続き、私はそのグループの男性に「また溶岩が見えたよ。」と2回くらい言ったので、その男性は思い浮かべるのをやめたのです。
つまり、意識がシンクロして共有したイメージを受け取れる領域にいたという事になります。

意識がつながる、肉体なしで、意識だけでつながる領域というのはあるのだというのが私の感想です。
きっと、それがIS・BEとして活動する領域なのかも知れません。

特筆することはもう一つあります。
それはセッション初日の出来事です。
まずは慣らすためにフォーカス10の周波数から始まります。
最初ですから全く何も期待はしていません。

フォーカス10の周波数が始まった、とほとんど同時くらいに、突然私の脳裏に、空港のイメージが浮かびました。
私は到着する人たちが出てくるロビーを見ています。
するとそこにまるで野球の古田にそっくりな、ばしっとスーツを着た有能そうなサラリーマンが出現しました。
まるでアメリカ人のように手を握手のポーズで差し出しながら、階段を降り駆け寄ってくるのです。
微笑みを浮かべ、まるで私を待っていたかのようでした。
驚きました。
驚いたせいかも知れませんが、イメージはそこで途絶えます。

後でこの映像が浮かんだという話を、藤崎先生にしましたら、
「その人はあなたのガイドです。」と言われました。
「ガイドですか!]
けっこう驚きました。
私はその時、あまりものを考えなくて済むパートの仕事をしていて、野心もなく、向上心もある、とは言えないのんびり生活でしたので、このような非常に優秀そうな男性のサラリーマンが、自分のガイドであるとは、到底思えませんでした。

このガイドに出会った話を、恐らく同じ企業の同僚であろう3人のグループで参加していた男性たちに話しましたら、
「いいね~いいね~。」と取り囲まれて、羨ましがられました。
ヘミシンクに興味を持つのは、怪しい占い師、ヒーラー系の方から、いったい何者かと思うような仕立ての良いスーツを着た、優秀そうなサラリーマンのグループがいました。
むろん、私のような一見平凡な、というのは考えていることが普通ではない、主婦たちもいます。若い女性も男性もいます。

この3人の男性は3人とも同じ仕立ての良いスーツを着ており、友人というより同僚という感じで、何か能力開発の目的で参加されたのかも知れません。
ヘミシンクが科学的である理由で、そういう目的の方も少なくは無かったかもしれないです。

そういえば、このころ、米国のモンロー研絡みで、ソニーの話も聞いています。
何かを開発したが、時期が早すぎるという事で見送られた商品があったという話です。
それは、亡くなった人と通信できる機械であったと思います。
ちょっと不確かでごめんなさい。

ヘミシンクのきもは振動です。
周波数、波であるわけです。
波…
私たちは自分の肉体を個体であると考えていますが、詳細に分解すると波になります。
波であるからには、別の波が干渉すると共鳴したり、別の振幅を持つ波へと変化したりします。
その異なる波の領域が…そこに焦点をあてると浮かび上がる情報領域というのが様々な世界領域としてあるのですねえ。

興味ありますか?

アクアビジョン様がわかりやすく解説しています。

続く→

「エイリアン インタビュー」その104・検証とその先へ、モンロー研究所 (未来)

2017.09.21.08:58






さて、モンロー氏の「魂の対外旅行」も終盤です。
では、最終章と行きましょう…



「睡眠時間を最大限に活用する」


睡眠時間は私たちの存在の中で一番見捨てられ、誤解されている部分だ。
私たちの睡眠は、私たちを左脳の構造と物理的入力による束縛から一時的に開放し、多くの領域で進歩する機会を提供してくれる。
そうした機会はどれも、睡眠状態にあるときに着手し、発展させることが可能だ。
一貫性をもって実行しつづけること、そして頻繁にやることが大切だ。
一回目、三回目、いや五回目でも結果が出てこないかもしれないが、そのうちに成功するだろう。
次の確言文を言ってから始めよう。


私は肉体存在以上の存在である。
私は物質以上の存在であるゆえに物質界よりも偉大なものを知覚することが出来る。
ゆえに、私は拡大し、経験することを強く願うものである。
私はこのような偉大なエネルギーとエネルギーシステムを、私にとっても、私の後に続くものにとっても有益かつ建設的なものとして認識、理解し、コントロールし、利用することを強く願うものである。
同時に私は、私と同等かそれ以上に優れた分別、経験を持ち、こういう成長段階にあるものの手助けと協力、援助、理解を強く欲するものである。
私はこうした人たちが私を導いてくれることを願い、私が述べた願望以下のものに私を押しとどめる、いかなる影響、いかなる原因からも私を守ってくれることを願うものである。



まずはじめ、この文をあなたが眠りに入ろうとしているときに、心の中で言ってみなさい。
出来るだけ早いうちに非言語的コミュニケーション(NVC)に変換し、確言文を言葉よりむしろ心の動きとして述べなさい。
このやり方に十分に熟達したら、今度は情報、健康管理、問題解決、コミュニケーション等、前にあげたうちのいずれでも、はっきりした必要性のあるものをNVCを用いながら加えて行きなさい。
答えは通常、言葉として出てくるのではなく、心の中に絵や音、現実的な行為として現れる。
この方法をどのように使っても構わないが、それには他人の意思を侵害しないという条件がある。
助けが必要ならNVCで助けを求めなさい。
助けはすぐにではにないにせよ、いずれやって来る。
しかし往々にして驚くべき形でやって来るだろう。
ふと掘り出し物に巡り合ったような、共時性をもってやってくるだろう。



「自分の負荷エネルギー率を推定すること」


肉体として誕生するとき、私たちは純真であるとされる意識状態を持つ肉体的生命に入る。
成人するまでの道のり、そしてその途中の成長段階は、純真さの喪失と名付けることが出来る。
喪失の度合いは、自分が故意に背負った責任の数によって決まる。
こうした数々の責任はあなたの権威主義的な行為の結果生まれたのである。
成熟とは成人することと同一ではなく、その度合いは自分がどのくらいの比率で幻想を捨て去ったかによって決められる。
これは意図的に捨てるもののことをいい、周囲によって幻滅させられることではない。
分別はペイロード(有価荷重)のうちでも最も軽く、最も貴重なものであり、分別心獲得に向かって州間高速道路を走っているあなたの進み具合は、幻想を捨て去った結果として行う、自分の意志に従った精神的かつ肉体的行為として表される。

解毒、負荷減量、洗浄作用は、成人、成熟、分別の順序に連なっているものと単純に解釈できる。
究極的には自分が自分の先生であり、自分で自分の成績表を書くのである。



「脱出速度エネルギーを高める」


脱出速度エネルギーは、人間体験学習の結果として自動的に生成されるようになるものであり、卒業するときには、従来の軌道に対する接線を形成するのに十二分なエネルギーが得られるであろう。
脱出速度を高めるためには、そのエネルギーを生成するのにここで提案されている行動をすることが助けになる。
この点を理解することがすなわち脱出速度になるのだ。
その時、過去にそうしたように、主要エネルギーを自分に反映させて変形することがなくなり、そのかわりに自分自身の中に、様々な形で主要エネルギーを生み出すことになる。
それを「ルーシュ=愛」と呼ぼうと、どういう名称で呼ぼうと自由である。
この時点では主体、客体の区別は必要ではないからだ。



「自分のカヌーは自分で漕げ」



今は別の現実界にいるが、ある語学教授の牧師は、この言葉を使って自分のフランス語のクラスの学生の目を覚ましたものだ。
彼はこれがフランスの昔からの有名な諺であると主張した。
生徒の何人かはこの謎を解こうと何時間も一生懸命考えた。
このことはここでも当てはまるかもしれない。
答えを見つけるにはこの文を言ってみるか、フランス語の発音で心の中ないしは声に出して言ってみることだ。
つまり自分の言葉に耳を傾けるのである。



それでは、私たちのふるさとで、あるいはその途中で会いましょう。



終了


^^^^

この後に語句の解説と付録としての質問と答えがいくつかありますが、それは割愛します。
興味がある方は本をご参照ください。

米国のロズウエルに1947年に墜落した宇宙船の生き残りの乗員とコンタクトを取った、軍所属の看護師のレポート・エイリアンインタビューから、私たちは元来がIS・BEであり、肉体だけの存在ではないということが語られているのを、補足するために長い引用となりました。
ここまでついてこられて、読み終えられたかたは、今までとは異なる眼で、地球や人間社会や自分自身を見ることになっているかも知れません。

この変化は永遠のものです。
何故なら、それはご自身のハートの奥に、消された記憶の残り火があり、その火が勢いを増し、燃やされた負荷や幻想の概念を超えて、しまい込まれた引き出しを開けてしまったからです。
一度、引き出しがそこにあり、いつでもそれを開けることが出来ると思い出してしまったとき、永続的な変化が付け加えられます。
たとえ、それが、ほんの小さな書類の、数枚の書類をしまっていた引き出しであったとしても。


お付き合いいただき、ありがとうございました。


ここからは、個人的な「臨死体験」の話になります。
それが終了したら、再び、モンロー氏の最後の本「究極の旅」を転載して、このブログを終えたいと思います。

私が死にかかった‥としか思えないあの状況の中で、体験した驚くべき出来事を、自分が発狂したのではないのか、現実にあったことであるのか、それを検証しようとして長い歳月とお金を費やしました。

初めは著名な占い師を巡り歩くという旅でありました。
道内から東京、神奈川、神戸…その結果わかったのは、誰もあそこへ行ったものはいないということ。
誰にもわからないということ、わかる人は存在しないということでした。

次には記憶を取り戻すことで、はっきりさせられるのではないか、という考えから、催眠療法で退行催眠をうけるという旅へと続きます。
この方法は、今では日本に来ていないリンダ・ローザという教師の方法で、いったんクライアントを体外離脱させ、そこから自分の内面にダイブさせて記憶をたどるというものでした。
非常に興味深いもので、その当時、抱えていた個人的な仕事上の悩みや人間関係などの問題に光を当て、解決に導くヒントを多数与えてくれる画期的なものでした。
しかしこの臨死体験は、肉体が体験したものではなく、IS・BEとなった自分が体験したものであったためか、記憶を取り戻そうとしても、そこには何もない‥という、思いだせないという結果にいつも終わるのでした。

他の問題がすぱすぱ解決していく中で、12回以上に及んだセッションを超えたある日、私は思い切って、先生にこう語ってみました。
「先生、今日は、あの死にかかった時の時間時点を限定して、その時点に退行してみたいのです。」
すると先生は言いました。
「あー、そんな!ほとんど死にかかったのでしょう?そんなことをして、もし死んだらどうするの!怖いわ!」
と、のたまったのです。

私は内心、
「死ぬわけねーだろ、このヘタレめ。出来ないなら出来なっていえばいいのよ。」と考えました。
言葉は悪いですが、12回を超えていて、他の問題は確かに見事に解決していきましたが、臨死体験を思い出すことは全くできず、焦りといら立ちを感じていたと言えます。

私は諦めました。
先生が怖いと思っているため催眠誘導が出来ないのだから、これで終わりにしようとその場を後にしました。
しかし考えてみると、リンダローザ氏の体外離脱させてダイブさせるという催眠療法を12回以上受けたことにより、なにがしかの修行のようになっていたのかもしれないと思う時があります。

この後、占い師たちや霊能者にわからず、催眠療法もダメとなると、自分の能力を高めて向上させたら、内部から開かれてくるかもしれないと考えました。

そして金城先生率いる「IIS国際スピリチュアリズム教会」主催の「霊性開花のワークショップ」というものに参加することにしたのです。


IIS(アイイス)こと国際スピリチュアリズム協会(International Institute for Spiritualism)


きっかけはここの霊能者である先生方に相談をしたことがはじまりです。
しかし、わかりませんでした。
先生方はキリスト教の教えが元にあり、誠実な先生方でとても信頼がおけました。
しかし、その宗教的概念が壁になってしまったかもしれません。

自分の能力を開花させていろいろなことが直観的にわかったりするようになると、思いだせるかもしれない。
臨死体験であったことを理解できるようになるかもしれない、と考えました。

案外私も飽きっぽいもので、2日間連続のワークショップを一回受けただけで終わりましたが、これはまたとても貴重な体験をしました。

参加者が家の鍵を提出し、混ぜて、わからないようにしてひとつづつ受け取り、その鍵から印象を読み取るというサイコメトリーと呼ばれているものを行いました。
驚いたのは意外に当たる!ということです。
私は選んだ鍵を受け取った瞬間、ある方の方を見ました。
その方のではないか、と直観的に考えたのです。
面白いことに、その方もほぼ同時に私を見ました。
理由はすぐわかりました。
その方の手に持っているのが、私の鍵だったのです。

また、壁に向かって座り、後ろから近づいてくる人がだれか当てる、ということもやりました。
不思議にも、これも結構当たるのです。
他の参加者もそうでした。
先生によれば、人間にはそうした能力が本来備わっているということです。
守られた環境の中で生活していくうちに、衰えた能力らしいです。

このワークショップの後、友人たちとやってみたりしましたが、やはり興味深いことに友人たちもけっこう当たるのです。
本当に人間の能力には五感を超えたものがあると今では感じています。

そしてやっとたどり着いたのが「モンロー氏のヘミシンク」、「モンロー氏の代外離脱体験」でした。
モンロー氏の本をむさぼるように読みました。
どこか共通するような、理解できる部分があります。
彼の開発したヘミシンク・脳半球同調という音響技術を使えば、対外離脱できる可能性がある。
ということは、臨死体験で行った場所に、行けるかもしれない!
そう考えたことがモンロー研につながり、このブログ記事となっています。

そして、ある精神科医の女医さんが行う、モンロー研のゲートウエィエクスペリエンスに参加することにつながっていくのです。

次回から、「検証とその先へ」の「その先へ」と進みます。
よろしければお付き合いください。

続く→

「エイリアン インタビュー」その103・検証とその先へ、モンロー研究所 (未来)

2017.09.12.14:41







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では続きです。



「サバイバル・残存欲としての性への執着の解除」


生殖行為の結果生まれた子孫が、肉体的に成熟するまで、彼らを守り育てる必要があるので、文化共同体の多くでは、子孫の保護、維持に関してある義務が課せられている。
これは一般的に純然たる肉体的必要条件なのだが、多くの者は、これにはそれ以上のものが含まれている、という考え方や観点を持ってきた。
生殖行為は何よりもまず、純粋に官能的刺激に対する反応なのである。
反応はそれ自体、感情ではない。
しかし経験する内容が深い意味合いを持つので、しばしば反応自体がまさに感情であって、実際よりもはるかに重要な意味合いを持っているという幻想が生じる。
この問題をさらに混乱させるのは、性的結びつきが「主要エネルギー」に見られるSL・スーパーラブ(超愛)的感情を表現する手段の一つだからである。

この負担を軽くするには違いを理解することである。
正しいとか間違っているとかではなく、単に違いを理解することだ。
肉体的行為としての観点から生殖行為を認識すると、それまでのどのような感情的執着も、単に時空の現実にのみ関与するだけになる。
これは繁殖行為として元来的に肉体的なのである。
行為の結果、他のエネルギー形が表れてこない限りは、行為を楽しめばいいのだが、性行為に囚われてはならない。
これをあの世までもっていく必要はない。
元来の形はもっと良いからである。

つまり性的な経験をするということは、全体の一部を極めて不完全な形でまねたものなのだ。
オスであれメスであれ、誰でも相手と性的に交わる義務は負っていない。
性的魅力があったり、性的魅力にひかれたりすることは、純粋に肉体的なものであり、生存動因の要素以上の意味は持たないのである。
しかし、こうしたものは個人の生活パターンを劇的に変化させるに十分である。
このことを本来持つ内容以上に重視すると負担が生じる。

もし愛が、主要エネルギーの表現と定義されるとすれば、性的耽溺は愛ではない。
しかしこれが、個人が愛の存在を学ぶようになるためのステップである可能性は十分ある。
もしこのようなことが実際に起こったら、愛の方を保持し、性的耽溺を棄てなさい。
そうすれば負担は存在しない。


「価値判断をやめる」


歪曲した時空を基盤においてしまうと、どのような想念や行為であろうとも、誰にもその質的レベルを正確に識別することはできなくなる。
軌道に上、下がないように、善悪、正邪は幻想としてしか存在しない。
確かに便宜上、私たちがつかの間に存在する文化が持つ、概念に従うことも必要かもしれない。
しかし確固とした全体像を持たないと、私たちは自分がしていることの究極的価値を理解することが出来ない。
それゆえ、自分自身が意図するところのものに従いなさい。
そして自分の感情をいかなる肉体的行為や他人の行動とも結びつけることをせず、負担を軽くしなさい。

「物質にたいする感情を分離する」

物理的なものや場所などは、時空の単位であって、学習体験をする際に手段として用い、楽しむべきものである。
そのいずれも「私たち」のものではない。
私たちはいかなる物も人も独占しないし、所有しないー私たちに属するものは何もない。
言ってみれば私たちが肉体として使う乗り物も借り物なのである。
記憶や経験を蓄え、感情は棄てなさい。


(注!さてここで、ドメインのエアルの文化を思い出すことにしよう。ドメイン文明では主に魂・IS・BEが主体である。そのIS・BEが肉体を去っても、記憶が消されることはない。再びその肉体があった場所に別の肉体を借りて戻ってくることがあった時、以前に別の肉体での活動で蓄積した物、財産を、自分の所有の物であると主張し、取り戻して継続して所有していくことができる。ドメイン文明とはそのようなものだ。このような文明化にある場合、地球で学んだような概念、経験は適用されず、全く別の異なる世界観を持つことになる。そうなると、これは別の話となる‥である故に、これらの話は地球経験をもとにした話でしかないということになります…しかし…もし…この物理的時空領域を卒業する時が来たら…その限りではないでしょう。)


「自分は自分の責任だ」

私たちは自分が自分自身の責任だということをいつも、どうにかして考えずに済ませたい。
間違いが起こったらしいと思うと、自分がしていることや自分がどういう人間であるかを考えるかわりに、状況が悪かったとか、自分以外の誰でもいいから、他の人が悪いことにしておきたい。
そのくせすべてうまくいったときには、自分の業績とする。
自由意思を行使している者として、私たちは自分自身を煽動しているのだ。
結果をおとなしく受け入れれば、リフトオブポイント・離界点に到達することが出来る。
このことは「誰のせいでもなく、自分のせい」という昔の民謡がよく表している。
調べてみるとよい。


「自由意思は幻想だ」

時空内においては、いろいろと束縛があり、まさにそれらの束縛ゆえに「自由意思は幻想である」といった論理は否定されざるを得ない。
私たちは肉体として誕生するとき、それ以前の経験に、それがどういうものであっても、束縛されているばかりでなく、私たちの住みかとする肉体の遺伝的構造によっても束縛されている。
その時から私たちは与えられた肉体に入り、長くても短くても一生涯その中で生きるしかない。
私たちは自分の肉体が課す限界の中で肉体を維持し、操作していく義務を負わされている。
私たちの肉体的存在の道具立ては、少なくとも当初は他者によって管理されているのだ。

(注!赤ちゃんであれば母親や父親の世話が必要だ、と言ったことね。)

それ以外のものは、色付けされたり変更を加えられたりしているが、自由意思と考えても良いかもしれない。
しかしこれを他の者に対して行使すると、負荷を増すだけである。
非物理的領域に残存するこの部分を最大限増幅させ、自らに課された限界を、感情を交えることなく受容すると、負担を除去することが出来る。

「笑いは浄化のプロセスだ」

疑問があるときは、とにかく自分の中の疑問を「主要エネルギー」の直接的表現として表出してしまうとよい。
こうした表現と同じスペクトルの一部にあるのが、我知らず微笑むことだ。
微笑みは感情表現の中でも最良のものの一つであるが、効果を生むためには自然な笑みでなければいけない。
人生のユーモアを見て取り、それを楽しまなければならない。
笑うと緊張が解け、自我が解きほぐされ、どのような出来事も等身大に見ることができるのである。


「痛み・喜びの関係(PP)は学習曲線を描く」

痛みと喜びはサバイバル・生存刻印に源を発する波長と考えること。
したがって、この波長の信号は時空の物質にのみ関係する。
痛みと喜びは物事を推し量るには欠かせない尺度である。

これを、基線の下が痛み、上が喜びになっている正弦波形と考えてみよう。
それぞれの振幅は強度を示し、この強度はコントロールが可能である。
第一のステップは、自分のPP蓄積記憶に固着しているすべての感情エネルギーを選り分け、除去すること。
次のステップは波形の各部分をコントロールし、その振幅を自由に加減できるようにすること。
自分のPP波形をほぼ完全な一直線にまで狭めることが出来たとき、その人は脱出速度に近づいている状態になる。



(注!なんだか、パソコンのセキュリティーでクリーンナップをするようなイメージがわきました‥)


続く→

「エイリアン インタビュー」その102・検証とその先へ、モンロー研究所 (未来)

2017.09.08.11:26







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続きです。




大きな負荷全体をその単位体に固定し、軌道の衰退を不可避なものとする接着剤ーこのような感情の圧倒的優勢は、地球における時空間の物理的出来事や、物体や仕組みに直接関係している。
だからこのような感情は、それぞれの発生点以外の現実では存在しえないし、それ以外の現実に適用することもできない。

一つだけ例外がある。
それは元来の「主要エネルギー」を唯一明確に正しく表したものであり、それだけは意のままに生成できない。
それは他の感情的想念や行為が統合され表現されたものであり、それゆえに破壊することが出来ない。
最も重要なのは、それが時空間に特有なものではないこと、つまりその存在はそうした環境に付随するものでないことだ。

このようにそれは負荷要因の一部ではない。
そのかわり、それは離陸を可能ならしめ、軌道に乗せ、脱出速度を維持させてくれる力の源である。

人間体験学校に入る(唯一でないにしても)主な理由は、まずこうしたエネルギーを識別できる形に翻訳するのを学ぶことであり、その次にそうしたエネルギーを発生させる第一級の人間になることである。

もしそれが何であるか知らなかったり、どうやって表現したらいいかわからなかったり、それを知りつつ発生させることができないとすると、これは容易ではない。
もし歌を全く聞いたことがなく、歌詞もメロディーも音程も知らず、さらに悪い事には自分に声帯があること、また声を持っていることさえも知らなかったら、人はどうやって歌えるようになるものだろうか。

その手掛かりは、一般的にみられる感情の誤称や間違った解釈は、感情に類似しているが同一ではないことは明らかである。
混乱をさけるため、それをスーパーラブ(超愛)SLと呼ぶことにしよう。
そこにある違いを知ることが肝要だ。
というのは愛と言う認識記号は、あまりに広範囲に使われてきたので、いかなる重大な意味も持たなくなってしまったからだ。

参加者のために稚拙な説明を試みよう。
SLは先に述べたように破壊することが出来ない。
一旦活性化されると、続いて沸き起こるいかなる想念や感情や出来事も、それに影響を与えることが出来ない。
SLは物質の現れ方や物質の活動には全く左右されない。
SLは生体や非生体がSLを生成する引き金となる触媒の一つになるかも知れないが、生体、非生体のいずれの客体も持たない。
SLは放射を続けるが、受け取られ方のようなものには、全く左右されないし、他のいかなる形の見返りも必要としない。
SLはSLなのである。


(注!大変難しい言い方なのですが、超愛と呼べるような持続する破壊できない放射をするものになること…つまり男女の愛とか親子の愛とか忠誠、信頼、誠実、忠義とかそういった好ましい言葉で表現されるものをはるかに超えた、愛としか表現できないものを生成する者になると言うこと…ってことですね…)


この圧縮学習のための人間学校は、極めて複雑で厳しい教科課程を持つ。
これと比較すると、最盛期の(ぺリス島)などは、お茶の時間みたいなものだ。


(注!ぺリス島って、何か不明ですが、おそらくミケーネ文明のことかと…http://hp1.cyberstation.ne.jp/legend-ej/p-civil1987gremyce-athe.html)違っていたらごめんなさい~。


そこでは人は少なくとも自分が何をしているのか、どういう目標に向かっているかが適当にはっきりしていたし、それが分かっているからこそ学習には価値があった。
私が心に深く感じたことーそれは私が遭遇したごく少ない先輩や卒業生の中で、人間学習システムを何度も繰り返ししたいと思わないものは、一人としてなかったことだ。
言葉で説明できぬ素晴らしい結果がもたらされるのを知っているから、何度でも繰り返したいのだ。
私が短い間に垣間見ただけでも、こうしたことが完全に主張できる。

準備ー発進と離陸

ここに掲げるのは、婉曲に言うと、学習過程の虎の巻とでも呼べるものだ。
講師たちがそれを認め、承認しているのである。
そうした手助けになるものすべてに共通して言えることは、その虎の巻が答えをすべて与えてくれるのではなく、正確かどうかの保証もないということだ。
せいぜい言えることは、この虎の巻は、講師たちの許可と協力を得て、急いで写させてもらったものだと言うことだ。
学習内容を講師たちが稚拙に解釈したため、歪曲もあるかも知れないが、この黒々とした一杯の水は、からからに喉が渇いたものにとっては、実際何もないよりましであろう。
これは少なくとも水なので、軽々と楽しく走りながら終着点に到達する助けになるだろう。

「解毒・負荷減量・洗浄作用」

この計画に必要なのは、肉体的生命のすべての形態における、肉体的、精神的、感情的、活動の継続と拡張である。
これはその過程を短縮化するよりはむしろ拡張するので、減少や退化が起こるとは考えられない。
干渉光の方がレーザー光線よりもはるかに効果的な結果が得られるのと同じように、変化はエネルギー体としての自分の知覚や抑制や定位という点で起こる。
これらの基本事項を出発点として、始めてみよう。

「現実とは知覚されるところのものである」

時空に関与する者として、自分は時空を知覚するし、これは自分にとっても現実である。
もし他のエネルギー系をどれも知覚したことがなければ、それらのエネルギー系は自分にとって現実にはならない。
しかし他のエネルギー系を知覚しても、それが現在の自分の意識内にないことを考慮しなければならない。
そうなると次の問題は、記憶に甦らせることである。

「エネルギーは表現されるまで存在しない」

私達はエネルギーの実現体である。
私達が変貌させたり生成させたりするエネルギーは、それを表現するまで何の現実性も持たない。
想念は私たちが伝達したり実践するまで、何の現実性も持っていない。
知識や情報は、普及させたり応用したりしなければ何にもならない。
たったひとつの想念でも、それが浸透して他の想念になったり、他の想念に働きかけたりしなければ現実性を持たない。
考え行動することは、精神的にであれ、肉体的にであれ、少なくとも一つ以上のエネルギー体を伴う生産性を持ったものなのである。

「集中したエネルギーは指数曲線的なものである」

ちょうどレンズが太陽光線を集め、何倍にもできるように、他のエネルギーも変容、修正することができる。
このことは特に人間の意識の中にあるエネルギーのスペクトルに当てはまる。
私達はたいてい特に非物理的範疇で、エネルギーをランダムに、知らず知らずのうちに働かせているのだが、それでもエネルギーが変容、修正される可能性がなくなるものではない。

「意識とはエネルギーの集中である」

人間の意識は特に、時空の物質の中に広く集中されている。
同じく意識と言っても、意識は他の形態も取り、異なる現実系で同時に活発に作用しているので、人間の意識だけが時空におけるエネルギー意識ではない。
このような多様性から2つの推論を引き出すことができよう.

一つには人間的な側面は、調性し焦点を絞ると、ずっと集中度の高い次元まで持ってくことが出来る。
これによって生まれる力と行動の可能性は、推測を許さないほど大きなものであるので、軽く考えてはならない。
もう一つは、必要とあらば同じエネルギー系の中の他の非人間形を参考にしてもよいことである。

以上述べたことは、ひとまず置いておこう。
そして実際的段階へ進むことにする。
次に掲げた説明は順に並べてあるが、必要に応じてどの部分を参照してもよい。
人間学習体験のすべてに共通する、決まったパターンや順序があるわけではないからである。
一人の人間の生命演習の初期に起こった出来事が、何年もたってから他の出来事の中に出てくることもあるのだ。

「居待ち原則の確立」

どういう変化が必要とされているのか、自分から積極的に探し出すよりも、変化が自分の日常生活の中に自然に表れてきたとき、その一つ一つに対処しなさい。
無視できないほどはっきりしている感情や愛着が感じられるまで、あるがままに生き、あるがままにしていなさい。

「一日24時間を生きる」

いつもすべての活動において、自分が何をし、何を考えているのか認識するようにしなさい。
そして一番強力であると思える、自分の注意を引く感情的要因を良く考えなさい。
これには、NVC夢の内容を持つ睡眠時間も含めること。
どうしてかを自分自身に問いかけながら、これらの感情的要因を探求し、それぞれの源に行き着くまで、この試みを繰り返しなさい。
その時になれば自分のエネルギーを他の目的のために放出するのが容易になる。
小規模のものから始め、次第に大規模なものに移行すること。

「自我ダイエット療法を始めること」

自我はもっとも防壁が厚い、歪曲した感情の塊で、これを真っ向から攻撃する療法は成功しない。
自我を治療するには、自我が存在するために欠くことのできない感情的力の供給源を絶つことから始めるのがコツだ。
この供給源を調節し、その中にあるエネルギーを別な方向へ向けていくことである。

ここで覚えておかねばならないのは、自我は満足を求めて常に計画を巡らせており、自分が間断なくその企てに責め立てられていることだ。
こうした自我の計画は、他人のためになるよう自己の行動を変容させることを目的としている。
問題は他人へのこびへつらいや、他人を気にしてどう行動するかではなく、自我の企てに対する自分の感情的反応なのだ。

もし単にそうするのが楽しいから贅沢な車を運転したいのなら、それはそれで結構なことだ。
もしこういう車を運転することが、自分をより重要な人間にすると感じたり、運転しているところを見られたかったり、私のもの・であることを誇示したいのだとすると、その人はそういう車を運転することによって、自我の供給源を見つけたことになる。

この教訓を頭に入れ、必要な時に適用し、これに従って行動しなさい。
自我感情のもう一つの供給源は、自己の内部で生成される。
一般に野望と達成動機は主に自我を満足させるプロセスと認められている。
こういう見方が本当か、野望や達成動機がもっと深いところから発しているかを見極めるため、次のテストを行ってみよう。

自分が成功しても、公私ともにいかなる形であれ成果が認められないと仮定してみる。
認められなくても自分の野望や動機は、それにふさわしい形で報われたと感じるであろうか。
また自らの野望や動機は、自分が肉体的に生き残るために、絶対的に欠かせないものであろうか。

もし両方とも、イエス!であれば、自分で気づいているよりも成長しているだろう。
名声や財産や人の追従があっても、自身に課せられた荷は事実上軽くなるであろう。
しかしもし、両方ともノー・であったら、どうしてかを自問し、自我の供給源を絶つようにしなさい。

それを絶つ過程で、主要エネルギー放射が減少することであろう。
そしてそのおかげで、自分が望むように正当化できる。
感情エネルギーを開放すればするほど、知覚するこうしたエネルギーもそれだけ大きくなることであろう。


続く→

「エイリアン インタビュー」その101・検証とその先へ、モンロー研究所 (未来)

2017.09.08.11:18







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では続きです。



「生存推進力の歪曲」


動物や植物、その他の有機的生命体のように、肉体の生命を持つ人間は、生誕時に強く刻印される(インプリント)ことがある。
それは成長し生き続けようとする意志、生き延びようとする意志である。
これは次の二つの基本的な形で表現される。


(身体の保持と維持)


まず初めの必要事項は、食べ物と水の獲得と消費である。
次に来るのは身体を適度に暖かくしたり、涼しくしておく必要性だ。
その次は捕食されないように、安全にしておく必要性。
この捕食の危険を及ぼす相手は、他の人間たちや肉食獣。
さらには昆虫や最微小のウイルスにまでわたる。
こうした必要性のうち二つ以上が、優先順位を争って真っ向から対立したとき、逃げるか戦うかのジレンマが起こる。

これは別に論争を呼ぶようなことではない。
では何が問題なのだろうか。
ほとんどの人間は覚醒時に、こういう問題を何らかの方法で処理している。
こういう事項はこなしていくより仕方がないのだ。
もしこうした必要事項が、自分自身の行動や家族、または自分の政府によって、明日にでも、あるいは来週中にも、さらには一生の間には間違いなく処理されることが分かっているとすると、あなたは人間のピラミッドの上層部の、0,0001%に属する。

また基本的な必要事項を超えて、大きな規模の歪曲が起こり始めることについても、何も目新しいことはない。
これにはたとえば将来変化が起こった場合に備えて、食物や他の財物を蓄えたり、滋養を取るのを目的とするより、嗜好や美容を目的とした数限りない種類の食物、そして特別な調理法やサービスなどがあげられる。
娯楽食物はアルコール、麻薬、たばこなどの形を取り、そうした食物の種類を巡り巡ると、また体のためによい食べ物や、体を健康にするための食べ物に戻ってくる。

衣服は単に体を暖かく保つだけではなく、望む色調、織地で適当に仕立ててあり、様々な状況に適応するものであるが、その上に次ぎ次ぎと矢継ぎばやにスタイルが変化していく。
住むところも、丘に建てた小屋といったものからはるかに遠いものになり、より大きなもので望む場所にあり、新しい家具や設備、装飾を繰り返し揃えたりする。
これらことごとくが、個人の嗜好や最新のスタイルに合わせることを主たる目的としているが、実は安逸とか、誇張して言われる必要性とかと比べたら、はるかに第二義的なことである。

これらの歪曲がはなはだしいあまり、実際になかなか死ねないところまで来てしまった。
施設に設けてある高額で広範囲にわたる生命維持装置がその実例だ。
肉体を生かしておくことが出来、細かい点に頓着する必要性は全くない。
文明化された社会では、自分の命を奪うことは罪である。
もし自分の生命を奪うことに成功したら、社会は誰を告訴するのだろうか。
このような余分なことや、付け加えられたことは数限りない誘因によって刺激され、合理化されるが、その中で有効性があるかないかの集中的な調べに耐えられるものはほとんどない。
こうした過程に加えて、獲得し、分配するための闘争が起こり、その結果、需要と供給という自然の物理法則が、フルに活動することになる。

これら蓄積された事項は、あなたという肉体に役立つように整備されている。
つまり、ドアにはカギを取り付け、家の周りは垣根で囲い、ドアや扉を設け、法則や規則を作り、吐き気には妙薬があり、都市や国家が出来、銀行や軍隊や原子爆弾が作られる。

この歪みの内部には、重い粒子をそのエネルギー体に結び付ける接着剤が存在する。
それらはすべて、初期の農耕文化および部族の成立とともに始まった。
生き残ろうとする動因による大変なやりすぎである。
そしてそれはすべて肉体的な次元で起こる。
それ以外は重要なものではない。
こうしたことは起こらざるを得なかった。
その本体は自由意志である。


(性欲ー生殖)


生き残ろうとする動因のうち、最も強力なものは、他のすべての動因に勝る刻印を持ち、そのために他のいかなるものよりも重大な歪みを起こしやすい。
その中でこれまでも、そして今でも最も強烈なのは、創造活動として霊妙で神々しい愛と言う感情が、自動的に生み出されるという幻想である。
その結果として生じるのは、不合理かつ拘束的な執着心や関わり合いで、それらは現在あるいかなる肉体的生命の目標をもひどく歪曲するばかりでなく、未来にまで継続する。
錯覚に基づく罪の意識、義務感、これらに関連した様々な記憶パターンからくる重荷は、大変強い影響力を持つため、それらの足枷から逃れることはできない。
更に、生殖行為のそもそもの動因は、性行為自体の束の間の絶頂と比べると、二次的な重要性しか持たなくなっている。
ただ男性に関して言うと、わずかの例外を除くと、生殖行為の動機は以前からそうだったようである。
洞察力のある女性は、男性のこの特性を知っていて、何百年にもわたる文化の進展を通じて、これを巧みに操り、その利点を極めて広い範囲に生かしてきた。

永続性という幻想に屈服する女性は、後ろでおとなしくしていて、やってくるものを受け入れる以外になかった。
簡単に言えば、一回性行為しても未来を創ることはできないのだ。
赤ん坊は出来るかもしれないが。

生殖行為という種族保存の動因の持つ力が、客観的に知られるにつれ、魅力や誘惑が一貫してあからさまに用いられるようになり、その結果、生殖行為の持つ快楽の要因そのものが、さらに歪められた。
このような誘惑は個人から大企業、さらには政府自体にまで用いられている。
その結果、様々な歪みが不協和音を奏でる。
それらのものはすべて、生殖行為に対する欲望と要求を増加させ、理にかなった解決法を提供せずに、問題を大きくしている。
いずれも人間を低い軌道に縛り付ける接着効果を強化しているだけなのである。



「主要エネルギーの拡散」


私達が感情と呼ぶものが、あらゆる形態で現れたものが、私達一人一人に生来備わっている「主要エネルギー推進力」、または「創造力」といった、私達が知らないうちに表現しているものであると考えてみてほしい。
それには例外はない。
ここに含まれるのは、喜び、悲しみ、怒り、幸せ、憎しみ、友情、郷愁、所有欲、忠誠心、自我、食欲、罪悪感、楽しさ、心配、不安などが含まれる。
通常感情と考えられていないものをいくつか挙げてみると、この中には、好奇心、思考、平等、希望、孤独などが含まれる。
そしてこの中にはもちろん愛も入るが、この場合は通常の意味の愛ではない。

こうした観点から見ると、感情は人間の存在におけるすべての想念や行為の基盤にある鍵であり、推進力である。
感情の存在しない状態もある、と言う考え方は幻想に過ぎない。
極度の客観的状態においてさえも、感情的な問題がきちんととりこまれているのだ。
出発点に戻ってみれば、理性と感情は手をつなぎ合ったもの同士である。
もし人間が創造力の産物であるとすると、人間らしくあるということは、そうしたエネルギーの感情表現であると言える。

人類史上の主な活動の中で、感情に駆り立てられたり、鼓舞されたりしなかったものはただ一つとしてない。
現在は頭の切れる政治家であれば、投票者が感情で大統領を選出すること、単純な数値も感情で色づけされていることを認めるだろう。
人類の歴史を通じて、偉大な指導者の全員が、感情的にひきつけるものを持っており、それを自らの原動力としてきた。
動機付けは感情の仮の表現なのだ。
多くの研究や権威ある出版物、何百億ドルと言う金銭が、近年この考え方を実地に応用するために費やされている。
しかしこれらのすべてが、こうした現象の根源から静かに後退しているようである。
これらは明らかに無知や拒絶に遭った為だ。

この結果として人間体験に用いられてきた、間違った方向に向けられた抑制されていないエネルギーが混とんとした混合状態になる。
感情をまじえず行動したり、考えたりする実験が単発的に行われているが、これは不可能なことだ。
どんな実験でも観察者によってうかつにも、無意識のうちにわずかに影響されていることが、徐々に確かめられてきている。
このように絶対的な実験結果の再現は、全く同一の環境でのみ起こり得るのであって、観察者、実験者の不安定な思考、感情パターンを考えると、そうしたこともまた不可能である。
簡単なテストとして、この一分間にあなたが表現したすべての想念、感情を記録してみるとよい。
それから1時間前の1分間を同じように思い出そうとしてみればわかる。

個人的なレベルでは一般化は特定的になる。
私達の存在の一瞬一瞬は内面的、外面的刺激に感情的に反応している。
覚醒時であれ、睡眠中であれ、変化し続けるエネルギーの流れのモザイク模様は、いろいろな組み合わせの振幅と周波数で揺らぎ続ける。
私達はこうしたエネルギーのモザイク模様の一つ一つの部分に、私たち自身の経験によって決定され、私達が今生きている文化によって印象付けられた価値判断を与える。

自分の経験と文化が矛盾すると、私達は通常、便宜のために譲歩して後者を選択する。
このように私たちは自分から良きものが十分に発せられ現れるように努力し、悪しき物を抑圧、抑制して、見えないようにしてしまう。
私達の大多数にとって真実の遺産と言える、この力強く極めて重要なエネルギーをわざわざこの程度にまで抑制しようとするのだ。
私達がこのような正しくない方法を使って成功しても、その成功はせいぜい部分的なものに過ぎない。

私達は盲目的な怒りのうちに決断を下し、その結果に反発する。
私達は望みを抱き、そして失望する。
私達は人や場所やものが、私達のかくあるべきとする考え方に合わなかったり、ならなかったりすると憎しみを覚える。
私達は自分が愛していると思い、それが間違いだったのが分かると意気消沈してしまう。
こうして数え上げればきりがないが、私達はそうせざるを得ないし、その他のより良いやり方もわからないのでそうし続けるのだ。
私達の感情の波は頂点に達したり、谷に落ちたりするうねりに乗る。
そうしているうちに中には皮肉屋になるものも出てくるが、そういう人間は冷笑そのものも感情であるという当たり前の事実を巧妙に無視する。

感情の塊というのは、人間の自我として漠然と保持されているが、その蓄積された量は非常に大きい。
自我はもともと生き残ろうという刻印から発生したものと考えられるが、常に大量の感情パターンで補強する必要があるため、そうしたものを消耗している。
これらすべての感情パターンは、まさに本来の性格からして歪曲されているし、歪曲する力も持っている。
自我には存在する必要があり、自我が物事を達成する必要性を持つという考え方を、自我自身が利己的に利用する。
更に自信という感情は自我の支持を得なければ存在できないし、幸福とは自我が満足したことを言う、という考え方も自我は利用する。
自我は何百という非合理的、感情的理由を作り出して、その存在を正当化する。
その際、感情と非合理性は同義ではないという事実は回避される。

自我は自我なくして人間の人格は存在しないのだということを、断固主張する。
自我は少なくとも一つの前提においては正しい。
人間は感情的生き物であるということである。
あとは単に使用、応用の問題なのだ。


続く→
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