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「エイリアン インタビュー」その144・検証とその先へ、モンロー研究所 (その先へ・臨死体験)

2018.04.26.21:05

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144です。


第9章   困難な道


モンロー研究所の業績も、地球の生命系そのものについても、私にとっては間違いなく「既知」の事項だ。
しかし欠けている「基本」に至る手掛かりが、そこに隠されているような気がして落ち着かなかった。
ただそれが何なのか、どうしてもわからないのだ。

そこでもう一度、私個人の活動に目を向けてみた。
繰り返し検証するうちに、明らかになった「知識」がある。
それは、体外に離脱する動きはもはや私にとって、「動き」とは呼べないということだ。
研究所の実験を数多くこなしている被験者は、そのことをしばしば報告していたが、私個人として、それを経験するようになったのは、「クイックスイッチ」法と呼ぶ手法を始めてからのことだった。
以後、私の対外離脱は、ひとつの意識状態からフェードアウトして、別の意識状態に移っていくというものになった。
つまり、「フェーズを離脱する」と表現した方が正確だし、左脳の分類システムにもなじむような気がした。
というわけで、このパターンが繰り返されることになった。
しかし、うすうす気づいていたことだが、物事がスムーズにいっているときに限って、大きな変化がエネルギーを蓄えて、出番を待っているものなのだ。

今回、私の自己満足を打ち破ったのは、睡眠中にフェーズを移行して体脱するとき、頻繁に起きるようになってきた一連の出来事だった。
それは昔に受けた「テスト」とかなり似通っていた。
そのテストは学習の一環だったのだが、体脱状態にいるとき、同じ体験が続けて起こり、私が正しく反応するまで何度も繰り返される、というものだった。
あれ以来、そんな体験は途絶えていた。

あのテストは非言語的なもので、非肉体的な存在、多分インスペックの友人が課してきたものらしかった。
肉体の状態を抜け出して、すぐに合流すると、用意はいいかと訊かれる。
私は全幅の信頼を持って応じる。
するとすぐに大きな「クリック」という音がして、私はその体験にどっぷりつかってしまうのだった。
「現実」でないなどということはすっかり忘れて、それをとことん体験しつくすのだ。

重要な決意が求められる局面になると、私は決断を下す。
そうするとまた大きな「クリック」があって、インスペックのところに戻っているのだ。
私のやったことが合格なら、そのテストはそれでおしまい。
不合格だとまたやり直しで、合格するまで繰り返さなくてはならないのだった。

何故私がテストされるのだろう、誰が正しい判定をするのだろう、などとは考えてもみなかった。
すべてとは言わないまでも、ほとんどのテストは、この世での私の人生とはまったく関わりないようだった。
背景や状況は、この地球のものが多かったが。
私は自分より賢い「何者」かが、私の出す答えを求めているのだと思い、びくびくしながらも喜んでそれに応じたのだった。
今回始まったのも、だいたい同じような感じだったが、ただ、インスペックが私のわかるような形では付き添っていないという点が違っていた。

インスペックと最後に会ってから、何か月もたっていたし、私の希望とは裏腹に、インスペックがいるらしい様子はどこにも見受けられなかった。
前と同じように、同じシチュエーションが様々な形で与えられ、その都度、決断が求められた。
インスペックに導かれていたときと同じパターンだったので、夢として片づけることは出来なかった。
それに私は、もう長いこと普通の夢や悪夢を見ていなかったのだ。

この体験は、無視できないほどに強烈になってきた。
方向転換は、ずっと私を待ち受けていたのだ。
私の注意を引くかずにはおかない事態が生じた。
先に触れたような活動の結果、各種の生理的、心理的状態が、覚醒時の意識にまで影響するようになってきたのだ。
これまで、体脱体験でこんな後遺症が出たためしはなかった。
興奮や高揚、悲しみや喜びが残ることはあった。
帰還してみると、穏やかでリラックスした肉体にこうした感覚があらわれるのだ。

しかし、胃がむかついたり、腕や脚が痛んだり、胸の鼓動が速かったり、神経全体が張り詰めていたりというのは例のないことだった。
そんな状態が、帰還してから15分か20分も続いたりするようになったのだ。
というわけで、好奇心からではなく必要に迫られて、私は再び答えを求め始めた。
これは昔、体脱体験への探求に駆り立てられた時と同じ動機だった。

しかし今回は、前とは違う。
恐怖に圧迫されてもいないし、技術も、協力してくれる友もある。
それに飛び込んでいく領域の地図も、原型くらいはできている。
まず第一歩は、これまでの出来事や行動を総括して、なぜこのような方向転換が起こったのか確かめることだった。

そうすれば欠けている「基本」の手がかりが、つかめるかもしれない。
前にも述べたように、私のこれまでの体脱体験はみな、意外にも左脳が優勢な状態で行われてきた。
このことからも、初期のうちに発見された事実、人間精神が地球の生命系に滞在する間に獲得する左脳の能力には、大きな価値があるということが、はっきり証明される。
ふつう、体脱はまったく右脳によるものだと考えられがちだ。
というのも、それは時空を超えたものであるため、論理的、分析的思考とは無縁のものと思われるからだ。
しかしその考えは間違っている。

私の体脱活動では、いつも自分の理性的な部分がある程度介在していた。
そのうえ、その介在の度合いが大きければ大きいほど、成長も大きかったのだ。
この場合の成長とは、「理解し、それになじんで、応用できるようになること」と言い換えられる。
この能力を獲得できなかったら、私はいまだにベッドの上の空中でもがいているか、鎮痛剤を処方してもらって、ようやく生きながらえているかのどちらかだろう。

典型的な例がある。
かなり初期のころのこと、私は近郊への体脱の旅を終えて、自信たっぷりに肉体に戻ろうとしていた。
すべてがコントロールできていたし、何もかも思い通りに行っていた。
ところが突然、私は障壁にぶつかってしまったのだ。
力づくで通り抜けようとしたが、それは鉄板のように硬い。
自分の肉体は障壁の向こう側にあるという確信があったので、なんとしても通り抜けることが肝心だった。
はるか上の方まで上がってみたが、壁に裂け目は見つからなかった。
下にも降りてみたが同じことで、右や左もだめだった。
通り抜ける道はなかった。
私は、超えられないこの壁にはりついたまま、永遠に過ごさなければならないのかと思って、完全に震え上がってしまった。
思いつく限りのお祈りを唱えてみたり、助けを求めて叫んだりしたが、しまいには、壁にもたれかかって、迷子のようにすすり泣き始めた。
私は、迷子そのものだった。

永遠とも思える時間が過ぎ、泣き疲れてしまうと、私は腰を据えて理性を働かせ始めた。
障壁を通り抜けられず、下をくぐれず、迂回もできないなら、残る選択肢はひとつじゃないかーもときた方に戻るんだ。
それまで考えていたことはどうあれ、答えはそれしかありえなかった。

実際やってみると、あっけないほど簡単に肉体に戻っていた。
左脳の論理のおかげだ。

それから出会った壁はみな、情報収集や調査、三段論法というような、この世で身に着けた能力で乗り越えることが出来た。
状況や背景は確かにずいぶん異なっていたが、調査や学習の方法は全く同じだった。
とはいっても、実際、状況に直面するときには、答えや解決法が魔法のように忽然とあらわれるわけではない。
左脳という分析の道具が、きちんとそれを与えてくれるのだ。
そういうやり方が好きでなくても、その正確さは否定できなかった。

体内にいても体脱していても、必要なことは同じだ。
立ち入り禁止の標識やタブー、神聖なものを示す警告、時間と解釈の歪み、幸福感と言う落とし穴、神秘主義や神話、永遠の父や母と言う幻想を無視し、破棄して、これまでに獲得し育ててきた左脳を使って、ものごとをしっかり見据えなければならない。
究めたり、調べたりすべきでないほど神聖なものなど、どこにも存在しないのだから。

そのためには、「異なる世界観」に大きな飛躍が求められるということも認識しておかねばならない。
例えて言えば、混雑し、渋滞した赤信号だらけの一般道を抜け出して、インターステート「未知」へ向かうハイウエイに入るということだ。
私たちが作ろうとしている地図には、意識の働きの及ぶ限り、ルートが書き込まれていくはずだ。

しかしインターステートの地図を作るのと、そこを実際に旅するのとは、別のことである。
左脳を完全に活性化させて、実際に通り抜けてみないことには、完全な「既知」とすることはできないのだ。
つまり、そこに関する記憶を取り戻していかなければならないということだ。
いずれにせよ、その地図と、「異なる世界観」は、より正確な信念を形成する助けになるだろうし、その信念はやがて、もっと楽に「知識」へと変わるようになるだろう。

さて、私に訪れた変化、体脱の反動が肉体にまで及んできたことに話を戻そう。
肉体を悩ますこの新しい信号は、私の見落としている重要な部分から来ているのだと、左脳は主張していた。
これが欠けている「基本」につながる、ヒントや手掛かりになるのだろうか?

選ぶべき道は二つに一つだった。
以前より理解も増したのだから、はじめに戻って、見落としているものを探しなおすか、それとも、美しい愛の雲に包まれたまま「もしかして…」と考え続けるか、前者の方が建設的だろう。

心が決まると私は、翌朝3時ころ、フェーズを離脱した。


続く→


(注!私も似たような体験があります。それを私は「夢」として捕えていましたが‥。
空を飛んでいます。すると突然壁に出くわします。
ずうっと上に上がってみても。それは永遠に続いている超えられない壁のようで、通り抜けられません。
しまいにはその壁にもたれて考え込んでしまいます。そこで終わり。目が覚めます。
その夢を繰り返し繰り返し見ました。通り抜けられなくて諦めると夢は終わりますが、別の日にやはりこの壁を越えようとして、あれこれ試すことになるのです。私の場合、モンロー氏と違うのは、性格にもよるのかもしれないですが、何度も何度も超えようとし続けたことによりり、その壁は崩れ始め、ある日とうとう、超えていけるほど崩壊しました。私は悠々とその壁を越えていくという夢の結果でした。
この夢は、私が壁を越えられるまで続いたので記憶に残っています。
モンロー氏と同じ状況であるかどうかは不明です。ただ、言えるのは、私はヘミシンクを利用していた…ということ。このころ、体脱訓練と称して、何度も何度もヘミシンクCDを聞いていました。)
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「エイリアン インタビュー」その143・検証とその先へ、モンロー研究所 (その先へ・臨死体験)

2018.04.19.21:22

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143です。


〇フェーズの概念


研究所の開発した手法とテクニックは、意識の位相を定め、コントロールするための方法といってよい。
肉体的に覚醒した状態にあるとき、訓練を受けていない精神はほとんど、あるいはまったくコントロールがきかず、毎日、こうしたフェーズの移行を頻繁に起こしている。
肉体の感覚や活動に完全に焦点が合っている精神の状態が、基本的なフェーズである。
この状態から少しでも外れると、フェーズが移行したとみなされる。
意識の一部がある程度、別の形の知覚を持つようになるのだ。
例としては、気の散った状態で、肉体的な感覚はしっかりとあるのに、心の一部が「どこかへ行って」しまっているという場合があげられる。
白昼夢と言われるものもそうだ。
内省することによって、肉体の感覚から意識が離れる時と言うのは、さらに意図的なフェーズ移行と言える。
ある種の瞑想状態も同様だ。
睡眠もまた、別の意識状態へのフェーズの移行であって、この場合、肉体の感覚情報がほとんど知覚されなくなる。

(注!これはほんとうに興味深い‥彼は何度も睡眠について言及し、その状態は自覚あるなしに関わらず、別の意識状態での活動を示すと言っている。つまり我々は自覚無しに、睡眠状態で体外離脱し、別の意識の世界を旅して帰ってきている‥しかも、毎夜‥肉体での活動であるわけではないので、脳はその活動の記憶を持たない。おぼろげな夢のような状態で残っているだけ。ということ…)

アルコールやある種の薬は、分裂したフェーズ移行を引き起こし、意識の一部が「ここ」にあるのに、別の一部は連続体の他の部分にある、といった状態にする。
こうした場合では、刺激が取り去られると、フェーズはもとに戻っていく。
精神病や痴ほう症は、意図せずして起こる移行の例で、この場合には逆に、非物質的な領域を和らげて消し去る目的で、薬や科学物質が使われたりする。

こうしたプロセスをはっきりと理解するためには、肉体というものを、「意識をチューニングするメカニズム」と、とらえればいいだろう。

そのメカニズムによって、人間の精神は肉体的な意識を得ているのだ。
したがって、ここには肉体的な感覚パターンを、精神が認識できる形にかえてやる回路が存在する。
テレビやラジオを、電磁的なスペクトルの中で、特定の周波数帯にチューニングするのと同じようなものだのだ。
こうした受信機には、妨害や歪みを生じさせる他の周波数帯の信号や調波を、おおよそ除去する弁別回路がついている。
ラジオの場合、ある局・周波数から別の局・周波数へ、ゆっくりチューニングしていくと、一つの信号が薄れ、別の信号がかすかに聴こえてくる。
これは受信装置が、元の局のあるフェーズから離脱しながら、別の局が聴こえるところへ移行しようとしているのだ。
さらにチューニングを続けると、元の局は聴こえなくなり、別の信号がそれにとって代わる。

人間の精神も「弁別回路」を使うことが出来、似たような働きをする。
たとえば、チューニングのプロセスを、訓練されていない精神がコントロールを失い、意識のフェーズから別のフェーズへと少しづつ漂っていく。
すると、肉体的なメカニズムから来る信号と、意識連続体の別の部分から来る信号を、同時に受信することになるのだ。
やがて肉体的な状態から来る入力信号は弱まって精神に到達しなくなり、精神は眠りや無意識と言われる状態に入っていく。

(注!これですね。私はよくわかるのですよ。義父が92歳で、夜に「かあさん、かあさん、かあさん」と大声で呼ぶようになり、「もうあと2~3日で行くからね」と言い出して、血圧がグーンと上がり、義母がパニックになって、急いで義父を入院させた話をしたと思いますが、移行が起きているのだと思います。この時期、「毎日自転車であちこちでかけている。」と語ったり、無論ほとんど寝たきり状態に近い。
「朝4メートルの雪が降って、スコップでトンネルを掘って出られるようにした。」などと語って、それは面白かったのですが、別の意識状態、我々が夢・と呼ぶ意識状態へと徐々に移行がはじまり、そこには義父の亡くなった母もいて、やがて完全にお引越ししてしまうと、お亡くなりになった‥ということに我々の世界ではなる‥ということかと考えております。
また、「雪の4mの壁があって、そこにトンネルを作った‥」と語っているのも興味深いと思いました。臨死体験者が語る光のトンネルに近いものか、と想像します。
実際、この時危なかったのだと思います。現在は、病院で薬を処方され、そういう、医者のいう幻覚・繊毛状態が薬で抑えられ、ケアで安定しています。
が‥
それが人間として良いことかはわかりません‥ほんとうは行くべき時に行かせてあげるのがよいのか…と思ったりします。問題は、残される側の寂しさの克服なのです。)

研究所で考察された学習システムは、こうしたフェーズの移行を自分の意志でコントロールできるようにする手段なのだ。
この学習を始めると、初期の段階から心は完全に落ち着き、起こってくる変化に対しても、ほとんど恐れや不安を感じなくなる。
というのも、そういう変化した意識状態は、もともと慣れ親しんでいる領域に属するからだ。
それまでと異なるのは、その領域に新たな秩序が与えられ、心が自ら主導権をとって、すべての変化を起こすようになるということだ。


〇左脳、右脳の象徴するもの

研究所は精神の研究に携わる他のある人たちとは、正反対の道をたどることになった。
私たちの取り組みのほとんどは、左脳の方法論、すなわち精神の知的分析的な側面を利用して、右脳、すなわち意識的抽象的側面を探求する、という方向で行われてきたのだ。

意識について調べる研究は、たいてい、孤立した環境を確保できるブースに被験者を入れて行われる。
様々なサウンドパターンを用いる手法やテクニックによって、被験者は、異なる意識状態に入ることが出来る。
ブースの外では、技術者が音響や様々な電子計測装置を操作し、被験者の脳波や他の肉体反応を記録する。
その一方で、モニター要員が、ブースの中の被験者と声でコミュニケートできるようになっている。
被験者のつけるステレオヘッドフォンを介して、モニター要員が被験者の頭の中にいるのと同じ効果が得られる。
こうしてモニター要員は、被験者の左脳の代理を務め、被験者が自分の知性をさらに活用して自分のしていることを知り、理解するように手助けしてやるのだ。

この手法で被験者は、自分の経験を客観的にとらえることを学び、それによって、純粋に主観的な意識状態ではふつう得ることのできない、詳細な情報まで手に入れられるようになる。
その結果、きわめて意義深い脳全体による思考が達成される。
脳の各部が結束し、統合され、左右どちらが優勢と言うわけでもない状態になるのだ。
私たちのトレーニングシステムは、生であれテープ教材であれ、左脳の働きを代行するものに他ならない。
ユーザー・体験者が異常な、魅惑的でさえある意識状態になっても、自分の分析能力を維持できるようにするのだ。
新しい状態に親しみ、理解を深め、成長していけるように導き、そして最大の障壁・恐怖を突破できるようにするのだ。

このように、無限の広がりを持つ右脳の領域は、左脳が掘り下げていくなら、実に豊かな収穫をもたらしてくれることが分かった。
脳全体を働かせる一貫した意識こそ、貴重な成果を生み出すのだ。
しかしこの研究は、まだ決して完結したわけではない。
研究所は今なお手法の改善に努めている。

それによって、現代の文化的基準では一般に認められていない、人間の意識状態を示す、再現可能な生理学上のデータを得ようとしているのだ。
ひとつだけ、実例をあげてみよう。

非凡な才を発揮する人間は、歴史を通じてアトランダムに出現しているように見えるが、そういう各種の能力を獲得できるようにする手法や方法を、私達は探しているのだ。
先天的、後天的を問わず、素晴らしい能力を持つ人たち、作曲家、最高レベルの数学者、優秀なスポーツ選手、特に才能豊かなセラピストなど、を調べて、私達はそういう能力を習得可能にするテクニックを見出そうと努めている。

このような方法で研究を重ねていけば、まだ正当性を認められていない精神現象の本質も、やがて十分理解可能なかたちにすることができそうである。
こうした現象を現代の文化的コンテクストに組み込めるなら、それは人類の歴史上、画期的な出来事となるだろう。

しかし、こうして私と研究所の仕事の成果を見渡していると、かすかな声が聞こえてきて、私に迫る。
「さてと」と声は言う…耳に心地よいとは、とても言えない、「お前のライフワークの成果が今のところそれで全部だというのなら、確かに欠けているものがあるな。お前ときたら、人に脳全体を使うことを教え、「異なる世界観」とやらを持つように教えているのに、本当に大切なことに備える手助けは、何もしてやっていないじゃないか。
この地球の生命系というゆうやつも大いに結構だが、人間はいつまでもここにいられるわけじゃない。
もっと必要なものがあるだろう。
言っておくが、お前がその必要に応えるべきなんだぞ。さあ…どうするんだい?」
どうしたら、いいのだろう?本当に…


(注!人間はいつまでも、ここにイラレルワケジャナイ‥??私達は卒業していくということ??)


続く→

「エイリアン インタビュー」その142・検証とその先へ、モンロー研究所 (その先へ・臨死体験)

2018.04.15.16:39

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142です。


第8章  回想と総括


この段階に至ると、さらに先を続ける前に、これまで力を尽くしてきた領域で、新しい方向と欠けている「基本」とを探してみるのが賢明だと思われてきた。
結局のところ私は、長年にわたって左脳と右脳の問題に没頭してきたのだった。
何かを見逃していたのだろうか?
問題の解答とはならなくても、手がかりとなるような事実を。
私たちが研究してきたこと…今も研究していることを、総括してみた方がよさそうだ。

先に述べた通り、私は1958年に初めて対外離脱を体験し、人生が一変することになった。
当時、私が統括していた会社の開発部門は、ラジオ番組の音響効果を特に手掛けていたが、音で睡眠をたやすく快適に誘発できる手法をすでに開発していた。
そして同年、研究の方向全体と、ひいては会社そのものをも変えてしまうことになる発見があった。
ある特殊なサウンド・パターンが、人間の精神が普通では到達できないような、異質な意識状態を誘発することがわかったのだ。
研究プログラムは、その後も続行され、そうした意識状態のもたらす効果について、またその状態を創り出すために必要な、音の組み合わせ方と周波数について、さらに検証が進められた。

各個人が様々な精神パターンを維持し、コントロールするためのテクニックや手法も発見された。
1971年に、研究開発部門を母体にモンロー研究所が生まれ、研究体制をバックアップすることになった。
後に研究所は、独立した教育研究機関となる。
何百人もの専門家とボランティア、(科学者、医者、心理学者、教育の専門家、コンピュータープログラマー、団体役員、芸術家など、様々な人を含む)の、協力と情報提供のおかげで、研究所は今やこの分野での実績を世界的に認められるようになった。

ここではっきりさせておきたいのだが、初期のころ、研究に労力と資金をつぎ込んだのは、人類の福利を目指したわけでも、科学界や世界に対して何かを証明しようとしたわけでもなかった。
睡眠中の学習パターンをコントロールしようとする試みに過ぎなかったものが、やがて精神と脳本体との関係、そして意識現象を理解しようとする試みに発展していっただけである。
したがって最近になるまで、学術論文も発表されなかったし、オーソドックスな科学の手法も、(可能な限り採用するようにしたが)、実際にうまくいかない場合には、しばしば無視された。
とはいえ開発された手法は、教義や儀式をともないはしないし、特定の信念体系、宗教、政治的社会的立場を支持するわけでもない。
ドラッグや化学薬品は用いないし、催眠術や潜在意識的な暗示や、洗脳に類するものも、一切用いない。
全く無害な手法であって、常にその人が自分の意志で行い、他人の強制は受けないのだ。

何千時間にも及ぶ研究の成果によって、被験者は各種の有意義な意識状態を意識的にコントロールする方法を学べるようになったが、こうした意識の探求の副産物として、他の多くの分野にも有益な貢献がなされた。

たとえば心身の健康、学習と記憶、肉体的な調和、創造性、問題解決、ストレス管理などの分野である。
脳半球同調、略してヘミシンクと呼ばれるこのプロセスは、焦点の定まった生産的で一貫した精神、脳の状態を誘発、維持することができる。
これを活用すれば、おのおの自分でプロセスをコントロールしながら、様々な目的を達成することができるのだ。

この期間を通じて、研究所では、思考方法に関する新しいアプローチが次々と生み出されていった。
その一つ一つが組み合わされて、いわゆる「異なる世界観」が成り立っているのだ。


〇意識は連続体である

焦点の定まった覚醒状態では、人間の精神は、連続した意識スペクトルのうち時空の枠内に制限された部分だけを用いている。
それを可能にするのが、五感を伴った肉体と言う装置である。
この肉体があるからこそ、自分の意識、精神を、物理的な行動やコミュニケーションとして外に表すことができるのだ。

この焦点合わせの作用が何らかの理由で影響を受けると、精神は意識スペクトル上を漂い始め、時空の知覚を離れて、物質界そのものをあまり意識しない状態になる。
こうなると、違った形の意識を持つようになるのだ。
私達はそういう意識スペクトルの異なる状態を、なかなか正確には想起できないのだが、だからといって、その存在を否定することは出来ない。
問題は、時空に限定された分析や評価方法のせいで、知覚や解釈が散漫になり、歪められてしまうということだ。

意識のスペクトルは、時空を超えて、別のエネルギー系まで無限に続いているらしい。
それは下方にも続いており、動物や植物の生命を経て、原子を超える極小のレベルまで達しているようだ。
一般に日常における人間の意識は、この意識の連続体のうち、ほんの一部しか活用していない。

続く→

「エイリアン インタビュー」その141・検証とその先へ、モンロー研究所 (その先へ・臨死体験)

2018.04.14.08:57

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141です。


これで地球の生命系とういうテーマについては、完結したように思われた。
しかし、そうではないのだった。
地球の生命系を他の観点から深く知っている私の別の部分が、語りたがっていた。

海辺に出るまで、森の中を長いこと歩いた。
小道は静まり返り、虫の羽音と、時折高い梢からカラスの鳴き声が聞こえるだけだった。
注意深く耳を傾ければ、青々と茂る下草の中で、枯れ葉がかさこそと音をたて、小さな住人がいることを教えてくれた。
萌え育つ緑のさわやかな香りの下に、湿った大地と朽ちていく植物の深い芳香がたゆたっている。
どちらも、生命のサイクルがめぐっていることを無言で示すシグナルだ。

微かな海鳴りが次第に大きくなり、少し風が吹いてきた。
やがて森は途切れ、緑灰色の海が水平線まで広がった。
塔のように堂々とそびえる積雲が、頭上の澄み切った青空を漂っていく。
白い砂浜の手前に緑の土手があり、あそこで歩を休めて身体を投げ出し、くつろぎたいという、抗しがたい思いにかられた。
波は優しく穏やかで、風は涼しくやわらかく、日差しは暖かく澄んでいた。

すべてはここに行きつくのだ。
久遠の時の始まりと終わりに。
この生ける空気と水と大地の集合体ーそれの与えるものー産み出すもの。
それは認識を超え、意識を超え、経験を超えている。
知性を超え、知識を、真実を、理解を超えている。
全体は部分の総和をはるかに上回るのだ。
学んでいく過程は、かくも素晴らしい。
あれとこれとの区別を学び、明と暗、騒音と静寂、力と弱さ、苦痛と慰め、硬さと柔らかさ、安定と不安定の区別を学んでいく。

さらに学ぶのは、原因と結果、作用と反作用、代価と支払い、権威と責任だ。
そして与えられる選択肢を理解するようになる。
止まるか行くか、つかむか放すか、沈むか泳ぐか、笑うか泣くか、仲間か敵か、報酬か罰か、成功か失敗か、愛か憎しみか、勝つか負けるか、秩序か混沌か。
考えることも学ぶ、調和させ、教え、計算し、コミュニケートする。
思い出し、結びつけ、計画し、着想を得る。
夢見て創り出し、望み、信じ、そして知るのだ。
感情を味わい、表現することも学ぶ。
喜びと恍惚、悲しみ、思いやり、寂しさ、交流を。
正当な怒りと、不条理な怒り、そして形や動きに美を見出すことを。

そして学ぶことも学ぶのだ。
言葉と数、書くことを学び、経験や知識や叡智を親から子へ、世代から世代へと、繰り返しにもめげず、ひたすら伝えていくことを学ぶ。
その学習を続け、拡大させていくために、組織、法、規則をつくることも学ぶ。
これらがみな、この森の彼方にある。
一面に実る穀物畑、きちんと植えられた数限りない滋養豊かな野菜の列、ものを有用な形に作り替える工場に。

家と呼ばれる様々な宿りの場所や、空高くそびえる塔に。
身体の代わりをする自動車や、世界中の海上や海中を航行する船、空に白い筋を引いて飛ぶ翼ある乗り物に。
地表から何百、何千キロという上空に浮かんで地球を回り、日夜、刻々と膨大な情報を届けている金属の鳥に。
そしてまた、コミュニケーションをしたり、方向を定めたりするのに役立つ、見えないけれど測ることはできる、制御された放射のネットワークにも。

それだけではない。
レンズや鏡や電子の耳によって、知覚を増幅して宇宙を探り、孤独感を癒してくれる信号、たった一つの信号を求め、星々、星座、銀河、新星、ブラックホールをくまなく調べること。
無鉄砲にも、我々の青い惑星から近くの月へと飛んでいき、その地に消えることのない足跡をしるすこと。
人に代わって他の惑星を訪れる探査機が観測をおこない、着陸して報告をもたらし、さらに深宇宙の暗黒に向かっていくこと。

かつては侵すべからざるものと思われた大地、水、大気のパターンを着実に読み解いてゆくことも学ばねばならない。
合金や化合物、元素、原子、分子、素粒子、放射線、波形について。重力、慣性、運動量、遠心力、磁力について。
有機物と無機物、身体の構造と生命活動についても。

創り手としての精神を探し求めることも学ぶのだ。
そして信念体系、眠りと夢、幻と幻視者、哲学と宗教を学ぶ。
愛についても学ぶのだ。

そうすれば、これは何千年という進化の努力の素晴らしい成果となり、それをやすやすと携えて、彼方に凱旋することが出来るのだ。
「向こう」で評価され活かされる、計り知れない価値を持つ遺産を。

しかし…それでも…無数の喧騒の中に、重要で大切な要素が欠けているという不安な感じがする。
注意を別の方に向けてみるがいい、そうすれば、知っているものの大群の中に小さな顔があらわれる。
人類とは言えないが、猿を超えた顔立ち、その瞳は感情にあふれて輝いている。

そこにあるのだ‥すべてが、その瞳の中に。
永遠ともいえる時を超えて、初めて知性の火をともされた者、原初の祖先が、静かな誇りと喜びを抱いて、完全に理解はできなくとも感謝しつつ、畏怖をもって、その火の成長を見つめているのだ。
それは放蕩息子のまなざしだ。

欠けている要素がひとつ、明らかになる。
動物という基本だ。
動物が存在し助けを与えてくれなければ、こうしたことは何一つ起こらなかったはずだ。
動物は、学ぶべき手本となり、肉体を食物として与え、飲むべき乳を与え、暖まるための隠れ家と毛皮を与え、強い背中で重荷を背負い、灯のための油、牙や角の装身具や護符を与えてくれた。
忠実さと一種の友情もあった。
そして、毛皮と素肌が出会うとき、想像を絶する理解のパターンが生まれることに気づいたものもいた。
こうした動物のエネルギーが、火花をかき立てた陰の力なのだ。
その事実を隠したり、貶めたりしてはならない。
全てを支えてくれた影の本質として、感謝を込めてはっきりと受け止めるべきだ。
それをすべての人に知らせるべく、胸を張って高く掲げねばならない。

それを知ったうえで、その小さな顔はかすかに、そっと、なごりおしげな笑みを浮かべ、そして消えていく。

さあ、もう行かなくては、森の小道を引き返すと、数えきれない挨拶を受ける。
低い枝のリスがこちらを見下ろして喋りかけてくる。
暗緑色の羽虫が手に止まり、指でそっとなでてやると喜ぶ。
7面鳥が3羽、道の脇で、こちらが通り過ぎるのを興味深げに、それでいて警戒はせずに見つめている。
灰色狐がふらりと道に現れて座り込み、こちらに注意を向けるべきか決めかねている。
ツグミが舞い降りてきて肩に止まり、森の外れにさしかかるまで、耳元で優しくさえずり続ける。
最後にほほをつついてあいさつすると、翼を羽ばたかせ、枝の中段に戻っていく。
さらば友よ。
だけど必ず、君たちを連れて行くよ。


続く→


(注!ちなみに、こういった内容を理解するようになったのが、博士号も持つ成功した大会社の社長であり、同じく博士号を持つ多数の研究者と共に、異なる次元の探求をまじめに行っているというのが興味深いところです。
 一般に、もしこういう対外離脱して感じた世界の話などすると、頭がおかしいと思われがちですが、実はまじめな研究対象となっております。そして、最近の研究で分かってきたのですが、統合失調症等の精神的病気と言われているものが、すべてではないにしても、実は「人間の進化を現わすもので、過渡期にあり、完成していない状態における混乱ととらえられています。興味深いと思いませんか?精神的な病気と思われているものが、実は、「人の進化に伴って起きている現象であった」という事です。
 進化はいまだ完成していず、それゆえに、社会適応が難しくなるという現象が起きているという事が、最新の研究結果です。病を個性と受け止め、進化の過程にあるのだと肯定し、自分を認めて、医療の助けも得ながら少しづつ進むのが良いのかも知れません。人間は、どこへ、進化していくのでしょうか?完成した暁には、どんな人間が超人類として誕生するのでしょうか?)


統合失調症患者は「進化形人類」だった!? 脳の進化の副作用だったことが判明、脳内の遺伝子に566の変異(最新研究)

最新の研究により、統合失調症は人類が進化する上で必然の副作用だった可能性が高いことが判明した! 意識高い系オンラインニュース「Big Think」(4日付)が報じている。

 妄想・幻聴などの症状を呈す統合失調症は、普通、治療すべき「脳の異常」だと見られている。医療系のドキュメンタリー番組で、奇声を発しながら暴れる統合失調症患者がベッドに拘束され、鎮静剤を投与されるシーンなどを観ると、ますますその確信は強まるだろう。
だが、言語や発話能力の獲得は、同時に自閉症と統合失調症を生み出したといわれるように、統合失調症の発症リスクは人類がこれほどまでに進化するための必要悪だった可能性がある。実際のところ、無秩序で乱雑な喋りは統合失調症の目立った兆候の1つであるし、複雑な言語体系を持つ人間だけが統合失調症を発症する。

 2008年にオープンアクセスのジャーナル「Genome Biology」に公開された研究によると、人類は進化において、脳の認知能力の限界点に到達し、この限界を克服するため、脳は代謝速度を速め、驚くべき速度で進化したかもしれないという。脳で起こった急激な分子構造の変化が、副次的に統合失調症を生み出したというのだ。

 また、2015年の別の研究では、HARsと呼ばれる急激に進化したとみられるゲノム領域における特定の遺伝子が、統合失調症に関連することが判明している。これらの遺伝子は人類の脳にとって重要な役割を担っているとともに、多大なリスクを抱えこんでもいる。
今回、科学誌「npj Journal」(2月20日)に公開されたオーストラリア・フロリー神経科学・メンタルヘルス研究所のエリザベス・スカー博士らの研究は、こういった先行研究で示唆されていた「統合失調症・進化副作用説」を裏付けるものだ。

 博士らは、統合失調症を患っていた15人の患者の脳とそうでない15人の脳を解剖し、大脳前頭極と呼ばれる認知能力や計画や推論に関係する脳の領域と、その周囲にある帯状皮質や背外側前頭前皮質といった統合失調症に関係する部分を調査した。その結果、統合失調症を患っていた患者には566の遺伝的変異があることが判明したという。論文共著者のブライアン・ディーン教授は、全てが解明されたわけではないものの、「前頭葉に大規模な遺伝的変異がみられるため、今回の研究は、統合失調症・進化副作用説を支持するものだ」と語っている。
ということは、統合失調症患者は「進化形人類」だと言うこともできるかもしれない。今のところ統合失調症は副作用だと解釈されているが、自然選択の結果残ったものだとすれば、実は人類の生存にとって不可欠の要素なのかもしれない。果たして統合失調症は克服されるべきものなのか、受け入れられるべきものなのか…今後の研究に期待したい。
(編集部)

「エイリアン インタビュー」その140・検証とその先へ、モンロー研究所 (その先へ・臨死体験)

2018.04.14.08:43

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140です。



右脳はその逆だ。
ここに由来するのが、形や空間の認識、美、直観、感情、それに加えて左脳が理解したり分類したりできない、愛や友情、インスピレーションのようなものだ。
右脳は、左脳の基準で愛や友情をはかったり定義したりするという考えには耐えられない。
それは、侵すべからざる右脳の聖域なのだ。
矛盾するようだが、右脳は否定的な感覚をかき立てられる部分でもある。

さらに最近の見方によれば、日常生活で何かが起きると、人間の意識は左脳と右脳の間を瞬間的に行き来するのだという。
計算をするときは、左脳が優勢になる。音楽を聴くときは、右脳の方が優勢だ。
最高の能力が発揮されるのは、左右の脳の思考が統合され、統一され、同調するときだ。

何世紀にもわたって、文化的な紛争のようなものが続いているが、近年になってそれが表面化してきた。
左脳が優勢な者たちは、右脳が優勢な者たちを、基本的に地球の生命系には適応できないものと考え、侮蔑と疑惑の目で見る傾向がある。
一方、右脳が優勢な者たちは、逆に相手を想像力に欠けた鈍い、あまりにも物質的な情のない者、「精神的な価値」を持たないものとみなすのだ。

そろそろこの戦いを終結させ、この危険な誤解を正すべき時だろう。
私たちの持つ最大の基本的な目的は、人生経験から学ぶということを別にすれば、知性というものを獲得し、育てることなのだ。
知性ー左脳の意識を。
右脳の働きに関しては、そのような努力は必要ない。すでに持っているものだからだ。
私達はそれを持って、生まれてきた。
どのようにしてか、それを受け継いできたのだ。

左脳の能力こそ、私たちが時空を超えた「向こう」を訪れ、そこへ帰還するときに、素晴らしい価値を持つものなのだ。
この世に滞在するようになる以前から、私たちの成長をしばっていた制限を取り除いてくれるのが、左脳なのだ。
左脳の働きだけが、「未知」なるものを「既知」に変え、恐怖を解消し、体験を増し、新しい視野を開き、誤った信念体系による拒絶反応を一掃してくれる。
右脳から発する、あるいは右脳を経由してくる、アイデアや情報やインスピレーションを、取り入れて行動に移すのは左脳なのだ。
どのような基準からいっても、左脳が優勢にならなければ、価値あるものを現実に創り出すことは出来ないのだ。

何千年もの間、人間の右脳は変化していない。
大きくもなっていないし、進化もしていない。
ずっと同じままだ。
それと対照的に、左脳の意識は着実に進化している。
そういう設計だったのか、必要に迫られたせいかはわからないが、この一世紀、この成長は幾何級数的な伸びを示している。
これは一人か二人だけのことではなく、この期間、文字通り何百万人もの人々に及んでいる。
今日、左脳の研究は進み、時空内での現象についてはかなり解明されたので、同じものを繰り返し取り上げないかぎり、探求すべき分野はあまり残されていないように思われる。

今や機は熟し、「向こう」のエネルギー場の探求に乗り出すべき時が来た。
左脳はその性質上、何とかして建設的に検証し、応用しようと試みる。
その左脳を右脳が促して、探求を開始させるのだ。
ここで右脳が役目を果たすことになる。

左脳は当然のことながら、地球の生命系での生存手段を見つけることに固執するあまり、それを邪魔したり、妨げたりするものすべてに抵抗する。
時空の彼方、「向こう」で起こることは、地球の生命系の住人にとっては、価値のないものと思われるのだ。
そういう知識が、「向こう」では成長のために最高に役立つということを、左脳が理解するときのみ、ある一定の興味が生まれることになる。

私たちの「異なる世界観」がとくに強調するのは、左脳の能力の成熟である。
先に述べた通り、それを手に入れるために私達はこの世に来たのだから。
右脳が優勢な者にとって、これは受け入れがたい、否、受け入れることのできない考えだ。
右脳の方が立場は上なので、右脳はしばしば、何千年にも及ぶ進化の賜物をぶち壊すような行動を左脳に強いることがある。

一方左脳は、右脳から役に立つアイデアやインスピレーションを見つけて、価値あるものを創り出し続ける。
非生産的な右脳のパターンも、邪魔にならない限りは我慢している。
また、右脳のパターンをひどく捻じ曲げて、地球の生命系で捕食者として生き延びるための仕組みに変えたりもする。
「異なる世界観」として、二つの定義を上げておこう。

左脳ー地球の生命系によって修正された人間精神。
右脳ー核自我の表れ。時を超え、肉体を越えた自分。地球の生命系には動かされず、影響されない。

秘訣は、左右両方の脳を同調させて同時に働かせ、左脳をなだめすかして「向こう」での働きに参加させることだ。
どちらか一方を、他方のために犠牲にする必要はない。

以上のことを頭に入れたら、以下のようなポイントが役に立つかもしれない。

1、常に自分が「自分の肉体以上のもの」であることを知り、想起せよ。それによって、地球の生命系での活動をたやすく概観できるようになる。苦痛は耐えやすくなり、恍惚はより深くなる。その場の恐怖は霧消する。

2、生存の欲求を認識し、制御せよ。それに支配されることなく、支配せよ。以下に示唆を与える。

A,公式の片方、肉体の生=善は、地球の生命系で必要とされるものであり、そこにとどまる間は受け入れてよい。公式のもう一方、肉体の死=悪は、捨ててよい。それ以上の知識が与えられるのだから。

B,究極の目的は、肉体的に生存することではないということを忘れるな。ここにいるのは何かをするためであり、ここで果たすべき役割があるのは確かなことであるから、絶望する必要はない。突発事故は起こるかもしれないが、それで損害を被るわけではない。
すでに人としての経験を積んでいるのだから。

C,生殖の欲求は、地球の生命系の中で最も強い動物的な本能である。種を肉体的に保存するためにとくに与えられた欲求であるから、それを楽しめ。
しかしそのために生死をかける必要はない。その操作をあるがままに受けて楽しめ。ただし必ず理解したうえでそれに屈せよ。

D,物質的な財産、材料、食物、道具、玩具は、この世で使用するためには重要だが、所有権は単なる一時的な便宜にすぎない。そうした財産は持ってはいけないし、持っていきたいとも思わないものだ。自分の肉体さえも。

3、過渡的な立場を維持せよ。厳密に言って人間であるという事は、それを選択しているということなのだ。その選択権はこの世にいる限り有効である。
望むなら、手に入れた情報を荷造りして、いつでもどこへでも立ち去ることができる。
どこからも非難や罰を受けることはない。
人間性精神が満足するなら、この世の風習や力がどうであろうと、それを実行していいのだ。地球の生命系に浸りきった者には理解できないだろうが、それはそれで彼らの問題だ。

4、生命系での生を楽しみ、大いに浮き沈みせよ。ただし、それに溺れるな。
生命系の働きに腹を立てたりするのはやめよ。不平等だと感じたり、不当に利用されたり、横暴にあったり、冷淡にされたり、欺かれたりしても、この世は弱肉強食の世界として造られているのだ。
そしてこれは、素晴らしい教育機関なのだから。

5、鍛錬と自覚したうえで、自分の人間精神を精一杯鍛えよ。美しい工芸品を作り、「問題」を解決し、花の香りをかぎ、夕日を見つめ、音楽を作り、物質世界の「秘密」を究め、親しい関係やその場のニュアンスを味わい、喜びや悲しみ、笑い、共感、思いやりを感じて、そして‥心に残る想い出をすべて、旅行鞄に詰め込むのだ。

6、一番重要なことだが、自分の人間精神に探求させ、経験させ、いつどこでそれに出会ったのかを意識の流れに加えさせよ。
それを飲み込め、しかし、そこに残る「故郷」の痕跡のせいで、逆にのまれてしまわないように注意せよ。
幻想となれ合いを警戒せよ。それはしばしば、地球の生命系の中で、真実を選び出すことを難しくするから。

7、人間精神は、地球の生命系の中でも、自然と「向こう」で慣れ親しんだ流儀でことを行おうとする傾向がある。
歴史にはそういう例が山ほど存在するが、結局はいつも、生命系の力が勝つのだ。
切っ先が鈍ったとしても、すぐにまた弱肉強食の動物的な要素が戻ってきて、実権を握るのだ。だからといって、人間精神の発露を生かす努力をしていないというわけではない。
一部なら変えられるかもしれない。
しかしすべてを変えることは出来ない。もし本当にオーバーホールをしてしまえば、もはや生命系など存在しないし、存在できなくなってしまうだろう。
だがどのみち、それがあとどれだけ存続するのか、誰が知ろう?

以上のポイントは、みないわば他人の「知識」に過ぎないが、左脳の論理的作用で問題や信念を一つ一つ確認し、あなた自身の「知識」に加えていくのはたやすいことだ。
ぜひ、これらを自分のために、自分だけのために実証して、あなたの「異なる世界観」を確固たるものにして欲しい。

続く→

「エイリアン インタビュー」その139・検証とその先へ、モンロー研究所 (その先へ・臨死体験)

2018.04.01.12:40

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139です。



〇心の底からの笑い

これもまた核自我から直接湧き出てくるものだ。
この放射は言葉や映像に翻訳することはできない。
「喜び」とか「楽しみ」と言った言葉では、平凡すぎる。
表面を模倣しただけの偽物が多いが、相手の心を和らげるのに役立つので、形だけうまく利用されている。
表面の形にとらわれず、この放射そのものにこそ注目すべきだ。
やはり、地球の生命系に、これにあたるものはない。
似ているものがあるとすれば、相手を捕食する前の警告くらいだろう。

〇美の鑑賞

純粋な核自我そのものである。
地球の生命系が作り出す美だけでなく、人間精神が生み出すものを見て、そのインスピレーションや独創性にひたすら感心すること。
高くそびえる橋やビルディングから、アカペラで歌う聖歌隊、人間のパフォーマンスに至るまで、様々なものに感動することだ。
人間精神は、こうしたプロセスによって情報、体験を集めずにはいられないのだ。
これは、地球の生命系には理解できないことであり、比較対象すべきものなど存在しない。
したがって模倣もありえない。

〇郷愁

核自我の中にある原初の記憶から湧き上がってくるものだ。
しかし原初の記憶は、この世の体験から来た情緒的なものと解釈され、片づけられてしまう。
そのようにして、内に秘められた願いー「故郷」に帰る道を知りたいという願いが、うやむやにされてしまうことがある。
地球の生命系はこれを理解しないし、そんなふうにシステムを逸脱するパターンも持たない。
これに最も近いのは渡り鳥や鮭だが、その動機になっているのは、システムの枠内での実用的なパターンに過ぎない。


〇触れ合い

これはごく単純な核自我の反映である。
力を入れずにそっと触れること。
殴るのではなくそっとたたくこと、押しやらずにそっとなでること、動物でさえその違いは分かっている。
地球の生命系の動物たちも、未熟ではあるが、確かにこうした触れ合いを学んでいる。
しかし、舐めたり体をこすりつけたり、といったところがせいぜいだし、それで十分なのだ。

〇密かな奉仕

核自我の真の発露である。
利他精神とアガペーがその例となる。
全く報いも受けず気づかれることもなしに、他人に奉仕するということだ。
結果的に核自我が満たされるという事になるが。
地球の生命系では、これは完全に理解の外である。
仮に起こりえたとしても、それは単なる偶然であって、意図されたことではない。

〇考え

地球の生命系のどこを探しても、人間精神程よく考える者は存在しない。
生命系にとらわれる段階を克服すれば、アイデアやインスピレーションや直感や、発明や革新的なものがあふれ出してくる。
こうした思いつきは核自我の指令によって生まれるが、好奇心が引き金となって、ひらめくことが多い。
好奇心は変化をもたらす素晴らしい触媒なのだ。
これに似通ったものは、地球の生命系には全く存在しない。
あるとしても、原始的な道具を作る能力くらいだ。
しかしこれは、肉体的な鋭い感覚に由来するとされる本能的なプロセスに過ぎない。
好奇心を持つ動物もあるが、それはしばしば命取りになる。

〇大いなる愛

これは世界中の興味の的であるにもかかわらず、あまりにも誤解が酷いので、何とか理にかなったレベルに戻すために、特に幅広く分析しなくてはならない。
以下に記すロートは、友人からもらったものだが、(注!ガイドのこと)
少なくとも最初の手掛かりにはなるだろう。
これをまず吸収すれば、じっくり考えるうちに認識が広がっていくはずだ。

「愛は教えてもらえないし、買うこともできない。愛は頭では学べない。
外的な刺激に応じて、心のうちにかき立てられる。自分ではこれを制御することはできない。
ひとたび始まれば、下の層に隠れたり昇華されることはあっても、滅びることはない。
肉体の死さえも、その存在の本質を変えることは出来ない。このようなエネルギーは、時空に左右されず、縛られることもないのだから。」

「この放射を握りしめて放さずにいることは出来ない。愛は理解するものではなく、体験するものだ。人から人へと渡されていくたびに、新しい部分が付け加えられていく。
それによって、エネルギーは増し、人は常に与えるものとなり、同時に受けとるものとなるのだ。」

性的な刺激やロマンスの神話が強調されすぎているために、「大いなる愛」というようなものを人間関係の中で体験したと称するものが後を絶たないが、驚くにはあたらない。
それは思い違いに過ぎないのだ。
そのような愛を手に入れたければ、人生の出来事を共に分かち合うしかないが、そうしたからといって、必ず手に入るという保証はない。
しかし一方、これは自然に育ってくるものでもある。
必死に取り組む必要はない‥たとえ本に何と書いてあろうとも。
時間も重要な要因ではない。分かち合いの体験が深く、密度の濃いものであればあるほど、かかる時間は短くなるからだ。

他にも魅力的な体験はあり、それは必ずしも有害だったり無価値だったりするわけではないが、愛とはまた別の範疇に属する。
どこが違うのかというと、大いなる愛は永遠不滅であって、特定の習慣や風習には左右されないということだ。
例えば友情は、大いなる愛の影のようなものだと考えられる。
あるいは、キスを交わすいとこ同士くらいの近い関係にはあるはずだ。
最大の問題は、誤認することだ。
私達はしばしば、大いなる愛を見出したと思い込んでしまうが、「愛する人」が理想に答えてくれないと、悲惨な結末を迎えることになる。

大いなる愛が、一番一貫してあらわれるのは、母性愛だろう。
これは見事に基準を満たすが、日常の習慣のせいで、その本質が覆い隠されていることも多い。
男性が他の男性に、女性が他の女性に、大いなる愛を見出すこともある。
これは普通、意味深い体験の結果として起こることだが、時間さえかければ自然と大いなる愛が生まれるというわけではない。
だが実際に愛が生まれてしまえば、意識しなくても言葉通り永遠にその愛は続くのだ。
共に働き、共に遊び、共に生活し、闘い、苦しみ、笑い、協力し合うなら、愛が生まれる可能性は増す。

大いなる愛の重要な特徴は、それが肉体の死によって弱まったりしないという事。
そして肉体の生の間に消してしまうことは出来ないということだ。
必要や状況に迫られたり、自分ではどうにもならない理由があったりして、その愛を昇華させてしまうことはあるだろう。
しかしそれは消えてなくなりはせずに、胸の中でそっと輝き続けるのだ。
「死が我らを分かつまで」という表現が、何故私達の文化に定着してしまったのか、まったくもって謎である。
恐らく先立たれたものが気を楽にして再婚し、もっと子孫をもうけて種の保存を確実にするように、という目的から始まったいいまわしだろう。
そうとでも考えなければ納得がいかない。

大いなる愛は、核自我の最高の精髄なのだ。
これらすべてを考え合わせると、欠けている「基本」がどこにあるか、はっきりしたように思う。
それは核自我にあるのだ。
しかしどうしたら、本当に自分自身を知ることができるのだろうか?


第7章  ツアーガイド


欠けている「基本」を探し求める旅は続く。
私達は、訪問者として地球の生命系を訪れ、一時的にそこに参加しているわけだが、ここでこれまでに学んだことを評価し、まとめておいた方がいい。
そうすればよくあたりを見渡して、より良い形で旅を続けることが出来るだろう。
私たちの「異なる世界観」は固まりつつあるが、それでもやはり疑問は浮かんでくる。
どうしてわざわざこんな思いをするのだろう?
居心地のいい信念体系に身をゆだねてくつろいでいてもいいのに、どうしてこんな苦しい旅を続けなくてはならないのだろう?

この旅が報いをもたらしてくれるかどうか、後になればわかるはずだ。
それまではとりあえず、私たちの今いるところを確認して、新しい「異なる世界観」が何を教えてくれるのか、見ておくことにしよう。
地球の生命系は、様々な欠点もあるが、素晴らしい教育機関だ。
この機関によって私達は、おのおののやり方で、エネルギーについて幅広く理解し、それを制御し取り扱うすべを覚えていく。
これは一般に、時空のような構造の枠内でしかできないことだ。
地球の生命系は一揃いの道具のようなもので、私達はそれを使うことを学ぶのだ。

地球の生命系の中で、私達はものを測ることを覚える。
ここは様々な対立をはらんだ環境なので、いろいろと比較することが出来る。
私たちが学ぶのは、熱さと冷たさ、空腹と満腹、速さと遅さ、悲しみと喜び、男性と女性、仲間と敵、愛と憎しみ、リストはまだまだ続く。

私達はエネルギーをどのように使ったらいいのか、様々な形で具体的に学習する。
私達は、体の内外で物理的なエネルギーを扱っている。
また精神エネルギーについても、自然すぎて自分でもどうやっているのか正確にはわからないまま体験し、操っている。

おのれの人間精神を用いて、私達はそれまで存在することすら知らなかった新しい方法でものを創り出すことを覚える。
こうした方法は、時空に特有のものだし、中には他ならぬこの地球の生命系にしかないものもあるのだ。
それによって、言葉を越えた表現の道が与えられる。

同じように私達は美の鑑賞についても学ぶ。
美が見いだされるのは、平凡な岩だったり、堂々たる樅の木だったり、雷雨、海に打ち寄せる波、夕焼け、優しい言葉使い、高くそびえる塔、和音、跳躍する豹‥やはりリストはえんえんと続く。
中でもとりわけ私達は、他の人間の考えや行動、相手と自分の感情に美を見出す。
そして笑い、楽しむことを覚えるのだ。

学んでいくひとつひとつのものが、たとえどんなに小さく、取るに足らないものに思えても、「向こう」、時空の彼方‥に行ったときには、莫大な価値を持つようになるのだ。
この事実を十分理解するのは、地球の生命系で人間として生きる段階をを卒業し、「向こう」に住むようになった者に出会わなくてはならないだろう。
そうすれば人間として生き、学ぶことには、何物にも替えがたい価値があると知ることが出来るはずだ。
そう、ただ信じるのではなくて。

さてあなたの「異なる世界観」に最大の変化をもたらすために、そして、地球の生命系で今こうして生きている目的を単純に理解するために、ここで話題をしぼってみる必要がある。
それにはまず、人間精神に特有な性質‥思考のプロセスについて、詳しく検討しなくてはならない。
現在受け入れられている概念によると、動物の本能に従った行動は別として、私たちの思考は基本的に、左脳と右脳という二つのカテゴリーに分類できるという。
しかしここで頭に入れておいてほしいのは、この呼び方は単に象徴的なもので、左右と言う言葉から想像するほどはっきり分かれているわけではない、ということだ。

左脳のプロセスは、物事を行う部分だ。
知的分析的な機能をつかさどる領域であって、ここに属するのは数学や言語の中枢、論理的思考、科学的手法、管理能力、ものを教える技術、ほかにもまだまだある。
私達を動物とは違うものにしているのが、左脳の働きなのだ。
「やればできる」という楽観主義は、左脳から生じるものだ。

続く→

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