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第二進化・アトランティス・ジーン(1)A・G・リドルー48

2020.03.29.12:58

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南極大陸東部 第5掘削現場 スノーキャンプ・アルファ

「今の深さは?」
ロバート・ハントは掘削補助員に聞いた。
「1800メートルを過ぎたところです。止めますか?」
「いや、そのままで掘り進めろ。報告を入れてくる。2000メートルに達したら知らせてくれ。」
彼らはもう1キロ半以上、何にもない氷を掘り続けていた。
これまでの掘削現場と同じだ。
ロバートは防寒着の襟を掻き合わせ、大きな掘削用やぐらを離れて、移動式住居に向かった。
途中で2人目の男の横を通り過ぎた。
声をかけたかったが、彼の名前を思い出せなかった。派遣されて来た2人の男はとても無口だった。
自分たちのことをほとんど話そうとしない。
酒を飲むこともなく、ただ黙々と働き続けるだけだった。
過酷な環境下でドリルを運転してもらうのに、これほど理想的な者もいないだろう。
とはいえ、雇用主は近いうちに諦めるかも知れなかった。
この第5掘削現場も、これまでの4カ所と何一つ変わらず、水しか出てこなかいからだ。
この大陸は一個の巨大なアイスキューブのようなものだった。
以前読んだ話によれば、ここ南極には世界の氷の9割と、淡水の7割が存在しているのだという。
世界中の淡水を、湖や川や池、、さらに雲に含まれるものまで集めたとしても、南極で凍りついている水の半分にも達しないというわけだ。
もしその氷が全て溶ければ、世界の姿は大きく変わってしまうだろう。
海面が60メートルも上昇し、あちこちの国が滅びることになる。
もっと詳しく言えば、海抜の低いインドネシアのような国々が水の底に沈んで、地図上から消えてしまうのだ。
ニューヨーク、ニューオリンズ、ロサンゼルス、それにフロリダの大部分も同じ運命にある。
確かに、氷だけならこの南極には山ほどあるだろう。
こんな場所で彼らは、何を掘り出そうというのか?
論理的に考えれば石油だろうが。
何はどうあれ、ロバート自身が石油掘削機器の運転士だからだ。
しかし、ここにある機材はどれも石油とは無関係だった。
それに掘っている穴の内径も違う。
石油ならば送油管を通せるサイズがあればいいのだが、ここのドリルはトラック一台が通れるほどの太い穴を開けているのだ。
いや、トラックを吊って下ろすこともできそうだった。
下に何があるのだろう?
鉱物か?科学的な価値のある化石か何かか?
それとも、土地の権利を主張するための策略なのだろうか?
南極は広大な面積を持っている。
およそ1400万平方キロメートルだ。
ここが一つの国なら、世界で2番目に広い国になるだろう。
むかしロシアで掘削したことがあるが、あそこも過酷な現場だったが、手応えという点ではずっと良かった。
南極はあの広大な国より300万平方キロメートル狭いだけだ。
およそ200万年前はこの南極にも、緑が茂っていたというから、氷の下に膨大な石油が埋もれていても不思議はないし、他にもまだ…。
背後で大きな音が、響いた。
地表に出ているドリルの軸が、激しく回転していた。
刃の先端が空回りしているのだ。
おそらく空洞に行きあたったのだろう。
予想していたことだった。
最近、調査チームが氷中に大きな洞窟や裂け目があることを発見していたからだ。
氷の下の山に、氷河に削られてできたフィヨルドがあるのかも知れなかった。
「ドリルを止めろ!」
ロバートは叫んだが、やぐらの足元にいる男には聞こえないようだった。
手で首を切る仕草をしてみても、ぽかんとした表情を浮かべているだけだ。
無線を掴んで怒鳴った。
「完全停止!」
やぐらの中央で、地表に突き出している長いパイプがぐらつき始めていた。
やぐらそのもののバランスが崩れかけているのだ。
ロバートは無線を放って、そちらへ走った。
男を押し除け、ドリルの停止ボタンを押した。
そして男を掴むと、2人でやぐらから走って逃げた。
あと少しで住居に着くというとき、やぐらが激しく揺れてねじ曲がり、横倒しになる音がした。
真っ二つに折れたドリルの軸が、宙で狂ったように回転した。
60メートルほど離れていても、その轟音は凄まじく、まるでジェット機のエンジンがフル回転しているかのようだった。
やぐらが雪の中に沈み、ドリルの先端が地表に現れた。
カンザスの荒野で吹き荒れる竜巻のように、氷を砕いて進んでくる。
ロバートと男はうつ伏せになり、降り注ぐ氷の破片と雪が、ドリルの回転に合わせて次第に沈んでいくのを待った。
ロバートは顔を上げ、現場に目をやった。
この状況を雇い主は喜ばないだろう。
「何も動かすな。」
彼は男に言った。
住居に入り、無線を手に取った。
「パウンティ、こちらスノー・キング。状況が変わった。」
ロバートはどう報告すべきか迷っていた。
あれは空洞などではない。
他の何かに行きあたったのだ。
あのドリルは、岩でも陸地でも、たとえそれが凍っていようと破砕できる。
ということは、あそこにドリルの刃を弾くような何かが埋まっているのだろう。
そうとしか考えられない。
「了解。スノー・キング。状況を報告しろ。」
控えめに伝える方が得策だ。
あえて危険を冒すことはない。
「何かに突き当たったようだ。」
ロバートは言った。

続く→
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第二進化・アトランティス・ジーン(1)A・G・リドルー47

2020.03.29.12:57

しばらく待っていたが、何も聞こえないとわかると、リュトがーは例の箱のスイッチを入れてトロッコの運転席に乗り込んだ。
クレイグが私の背中を叩いた。
「準備ができましたよ、ミスター・ピアーズ。」
彼は助手席に乗り、私は後のベンチ席に座った。
リュトガーの運転はめちゃくちゃだった。
闇雲に入り口のレールに突進したかと思うと、衝突寸前でステアリングを切って軌道に乗り、そこから一層速度を上げて、地中へと突っ込んで行った。
私たちはまるでジュール・ベルヌの小説に入り込んだようだった。
確か「地底旅行」という題名だったか。
構内は真っ暗で、トロッコの薄暗いヘッドランプだけが、かろうじて前方3メートルほどを照らしていた。
私たちはもう1時間にも思えるほど長い間猛スピードで走っていたが、その間私は、ただただ唖然としているだけだった。
最も坑道に響く爆音の中では、何を言っても聞こえなかっただろうが。
想像を絶するほどの規模だった。
坑道は幅も高さもたっぷりあり、その上、悔しいことだが、実に見事に掘られていた。
これは宝探しの坑道などではない。
本格的に掘り込まれた地下通路だ。
坑道に入ってからの数分間は、ずっとカーブが続いていた。
螺旋状のトンネルを下っていたのだろう。
コルクの栓抜きのように地を穿ち、湾の下に達するほど地中深く潜り込んだトンネルだ。
螺旋状のトンネルの後は、少し広めの場所に出た。
備品の保管などに使われる中間準備地帯だと思われた。
だが木枠や箱やらが一瞬見えはしたものの、すぐにリュトガーがスピードをもう一段階上げて、直線の坑道を飛ばし始めた。
一定の角度で下りの傾斜が続き、1秒毎に空気の湿り気が増していくのが分かった。
何度か分岐点を迎えたが、それでもリュトガーは速度を落とさなかった。
右へ左へとステアリングを切り、ギリギリのところでカーブを曲がるという無謀な運転が続いた。
私はベンチを握り締めていた。
クレイグが身を乗り出して若者の腕に触れたが、耳をつんざくほどの轟音に遮られ、彼が何を言ったかは聞こえなかった。
それがなんであれ効果はなかったようだが。
リュトガーはクレイグの手を払い除け、ますます鼻息を荒くしただけだった。
トロッコのエンジンが悲鳴を上げ、坑道が次々と眼前に迫っては去って行った。
リュトガーがこんな風に危険な運転をするのは、自分は暗闇でも進路がわかること、ここは自分の縄張りであること、自分が私の命を握っていることを証明したいからなのだ。
私を怯えさせたいのだろう、作戦は成功している。
この掘削現場は、これまで私が入った中では最大のものだった。
ウエストバージニアの山にも巨大な鉱山はあるが、それでもここまでのものではない。
坑道がついに荒削りの広い空間に出た、坑夫たちが進路を探り、あちこち掘ってみたという感じの場所だ。
天井から垂れる電気式の照明が、壁にできた凹みやドリルの穴を照らしていた。
壁には火薬で爆破したまま放置された跡がいくつかある。
黒いコードの塊が目に入った。
テーブルの横に束ねて置いてあり、そのテーブルの上には、地上と通じていると思われる電話機が載っていた。
レールもここで終わっていた。
壁際近くにある終着点には、例の小さな軌道車が3台並んでいた。
そのうち2台は上の部分が吹き飛んでいるが、一番手前の3台目は何事もなく、静かに停止していた。
この湿った空間で濃い酸素を探し求めるかのように、炎を大きく燃え上がらせている。
リュトがーがエンジンを切って飛び降り、蝋燭の火を吹き消した。
クレイグも彼に続いてトロッコから降り、私に言った。
「それでどんなご感想ですか、ミスター・ピアーズ?」
「素晴らしい坑道ですね。」
私はもっとこの不思議な空間を見てみようと首を巡らせた。
リュトガーが戻って来た。
「すました顔をするなよ、ピアーズ。こんなすごいものは見たことないんだろ?」
「見たことがあるとは一言も言っていない。」
次の言葉はクレイグに向けて言った。
「メタンガスの問題があるようですね。」
「はい、比較的最近のことですよ。去年になってガスだまりに行き当たるようになったんです。ご覧のように、そちらの対策はあまり講じられていません。そもそも、この現場で最も危険なのは水だと思っていましたから。」
「無理もありませんね。」
これが炭鉱なら、メタンガスの危険は常にあると思っていい。
だが、こんな場所では私だってメタンがあるとは予想できない。
見たところ、石炭や石油を含め、燃料鉱床らしきものは全く存在しないのだ。
クレイグが頭上を示した。
「お気づきでしょうが、ここの坑道は一定の勾配で掘られています。約9度です。問題は、上にある海底の斜度がおよそ11度だということなんです。今いる場所ですとほんの70メートル上方には、海底がある計算になるんですよ。」
私はその意味を悟り、愕然としてしまった。
「メタンガスは海底から来ていると?」
「ああ、そう懸念しています。」
リュトガーは、まるで噂話に興じる老婦人たちを見るように、薄笑いを浮かべていた。
天井を観察した。
クレイグがヘルメットと小さなリュックサックを寄こした。
彼が側面にあるスイッチを入れると、ヘルメットのライトがついた。
私はしばし不思議な思いでそれを見つめていたが、目の前にあるもっと大きな謎と向き合うべく、黙ってヘルメットを被った。
天井の岩は乾いていた。
いい兆候だ。
口にこそしていないが、ここで私たちが心配しているのは、メタンガスだまりが海底の広範囲に広がっている場合のことだった。
もしそれが爆発すれば、規模は恐ろしく大きなものになり、流れ込む海水がほぼ一瞬のうちに、坑道を押し流してしまうだろう。
中にいる人間は焼かれるか溺れるか、潰されるかして死ぬことになる。
あるいはその組み合わせで。
たった一つの火花が、つるはし、落石、車輪とレールの摩擦、そのどれから出たものでもいい…ここを丸ごと吹き飛ばしてしまうのだ。
「もしこの天井と海水の間にガスがあるなら、選択の余地はありませんよ。ここを閉じて別の方法を考えるべきです。」私は言った。
リュトガーが鼻で笑った。
「だから言ったろ、マロリー。こいつには向かないんだ。臆病者ののろまなアメリカ人の相手をしてたって、時間を無駄にするだけだぞ。」
クレイグが手をあげた。
「待ってくれ、リュトガー。我々はお金を払ってミスター・ピアーズに来てもらっているんだ。ちゃんと話を聞こうじゃないか。」
「ふん、お前ならどうするというんだ、ミスター・ピアーズ?」
「どうもしない、計画を中止するだけだ。人命を危険に晒してまで掘るようなものじゃないだろう。経費を考えても割に合わないはずだ。」
リュトガーは呆れたように目玉を上に向け、私たちを無視して辺りを彷徨き始めた。
「残念ながら、それはできないんです、ミスター・ピアーズ。」
クレイグが言った。
「あなたたちは財宝を隠しているんでしょう?」
クレイグは背中で両手をくみ、坑道の奥の方へ歩いて行った。
「この現場の規模をご覧になったでしょう?あなたにもこれが宝探しでないことはわかったはずです。1861年の話ですが、我々はこのジブラルタル湾に、一隻の船を沈めました。
ユートピア号という名前の船です。ちょっとした内輪のジョークですよ。
それはともかく、我々はそれから5年間、沈没現場に潜り続けました。
船を沈めたのは、その海底に埋もれているものを秘密裏に調査したかったからなのです。
そう、ジブラルタルの海底から1、5キロほどの海底に、ある建造物が眠っていたのですよ。
しかし、調べた結果、海から構造物に近づくのは無理だと分かりました。
あまりに深く埋まっているため、単純に我々の潜水技術ではどうにもならなかったんです。具術の進歩を待っている暇もありませんでした。それに世間の注意をひいいてしまうという危惧もありました。貿易船が一隻沈んだという口実で、もう何年もその現場にいましたからね。」
「建造物ですか?」
「はい、都市か、寺院のようなものです。」
戻って来たリュトガーが、私に背を向けてクレイグに言った。
「こいつに教えることはない。大事なものを掘っていると思ったら、もっと金をふっかけてくるぞ。アメリカ人もユダヤ人並みに意地汚いからな。」
クレイグが声を荒げた。
「黙るんだ、リュトガー。」
幼稚な男が何を言おうと無視すればいい。
私は興味をそそられていた。
「なぜその船を沈めるべき場所が分かったんですか?どうして埋まっている場所がそこだと?」
「我々は、おおよそのことは掴んでいたのです。」
「どうやって?」
「古い史料があったからです。」
「ではこの坑道が沈没現場の下に到達したかどうかは、どうやって判断するのですか?」
「コンパスを使い、勾配と距離をもとに坑道の位置を割り出すんです。ここは現場の真下ですよ。証拠もあります。」
そういうとクレイグは壁に近づいて岩を掴んだ。
いや、岩ではなく、汚れた黒い布だ。
彼がその布を引き下ろすと、通路が現れた。
何やら巨大な船の隔壁のようにも見える。
私もそちらに近づき、ヘルメットのライトでその奇妙な空間を照らしてみた。
壁は黒く、一見して金属だと分かったが、反射の仕方が普通とは違っていた。
説明が難しいが、作った鏡とでも言えばいいのか、まるで生きているように私の光に反応しているのだ。
それにライト、通路の天井と床でいくつものライトがキラキラと輝いている。
カーブした通路の先を覗き込むと、突き当たりにはドアか門のような物があることがわかった。
「一体、なんなんですか?」
クレイグも私の肩越しに通路を覗いた。
「我々はアトランティスだと考えています。プラトンの著作に書き残されている都市ですよ。場所もあっています。プラトンによれば、アトランティスは大西洋にある島で、ヘラクレスの柱に挟まれた海峡のすぐ前に位置していたと言いますから。」
「ヘラクレスの柱…」
「はい、ヘラクレスの柱は2本あり、その1本がジブラルタルの岩なんです。プラトンによれば、アトランティスはヨーロッパやアフリカ、アジアを支配し、他の大陸と往来もできたということです。ですが、アトランティスは滅びてしまいました。プラトンはその著書で、巨大な地震と洪水が起こった。そして過酷な1昼夜のうちに戦士全てが大地に埋もれ、アトランティス島も同じように海の底に消えてしまったと、書いています。」
クレイグは奇妙な構造物から離れていった。
「これがそうなんです。我々はついに見つけたんですよ。なぜここでやめるわけにいかないか、これでお分かりでしょう、ミスター・ピアーズ?本当にもう目の前なんです。あなたも一緒にやりませんか?あなたにぜひ協力していただきたい。」
リュトガーが声を上げて笑った。
「時間の無駄だぞ、マロリー。こいつは怖くてたまらないんだ。目を見ればわかる。」
クレイグは私を見つめ続けた。
「彼は無視してください。危険なことは承知しています。報酬をあげても構いません。週に千ドル以上お支払いしますから、お好きな額をいってください。」
私は通路を覗き込み、それからもう一度天井を観察した。
岩は乾いている。
「考えさせてください。」
私は言った。

続く→

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第二進化・アトランティス・ジーン(1)A・G・リドルー46

2020.03.29.12:57

翌日、ヘレナが仕事に出ている間に、マロリー・クレイグがやって来た。
彼は胸の前でハンチング帽を握って玄関口に立っていた。
「ミスター・ピアーズ、昨日は大変に不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。ミスター・ケインは大変な重圧にさらされておりまして…その、今日はお詫びをお伝えするためと、これをお渡しするために来たんです。」
彼が小切手を差し出した。
イマリ・ジブラルタルの口座から支払われる、5千米国ドルの小切手だった。
「あなたに掘削の指揮をとっていただけると光栄です、ミスター・ピアーズ。もちろん、あなたの条件で構いません。」
私は昨日の話ではあまり興味をそそられなかったが、いずれにしろ改めて連絡すると彼に言った。
そのあとは一日中、じっと座って考え続けた。
じっと座っているのも考えるのも、戦争にいく前は苦手で、行ったあとはたっぷり訓練されたことだった。
坑道を降りていくところを思い浮かべてみた。
空気がジメジメとして冷たくなるにつれ、日の光が蝋燭に変わっていく。
私自身、これまで落盤などで怪我を負ってから、変わってしまったものを何人も見て来ている。
光が消えた途端、屈強な男たちが朝食のフライパンに打ち付けられた卵のように、ぐしゃりと砕けておかしくなってしまうのだ。
私はどうだろう?
想像しようとしたが、実際にトンネルを降りて見なければわからなかった。
他に仕事を見つけられるか、選択肢を考えて見た。
鉱山関係の仕事なら、少なくとも戦争が終わるまでには見つけられるだろう。
終わればかつてないほど鉱夫の数は増えそうだ。
戦争で新たに技術を身につけたものもいるだろうし、帰還する元鉱夫の数も増えるからだ。
だが私のような体のもの、これはどうにもならない現実だ…は、ジブラルタルを離れなければ雇ってくれる鉱山など見つからなくなる。
その上、もし(と言っても、本気でそうするつもりはないが)わざわざアメリカや南アフリカまで行っても、怯えて坑道から逃げ出すだけで終わってしまうかも知れないのだ。
小切手に目をやった。
5千ドルあれば、選択肢が増える。
それに、彼らの坑道を見学すれば…私自身の心の状態がはっきりするだろう。
見るだけ見てみよう、そう決めた。
いつでも歩いて出て行けるし、心の調子によっては走って逃げることもできる。
仕事は断るだろうから、ヘレナには言わなくていいと、自分に納得させた。
あえて心配させる必要はない。
兵站病院の看護婦など、ただでさえ気苦労が多いのだから。

ドリアンはこめかみを揉んだ。
「監視衛星の映像が届きました。」
技術者が言った。
「それで?」
そのリスのような男は身を乗り出し、コンピューター画面に目を凝らした。
「標的がいくつか確認できます。」
「ドローンを向かわせろ。」
それらの寺院は、チベットという巨大な干し草の山に紛れ込んだ針のようなものだった。
だがついに、その姿を捉えてやったのだ。こうなればもう、こっちのものだろう。

79

ケイトはデヴィッドの傷を丹念に調べて、包帯を取り替えた。
治りかけている。
きっともう直ぐ良くなるだろう。
ケイトは希望を抱きながら、また日記を手にとった。

1917年8月9日

昨日訪ねて来たとき、クレイグはイマリ・ジブラルタルについて、ただの小さな企業ですと言っていた。
そしてこう付け加えた。
「まあ、上にもう少し大きい組織があって、このヨーロッパや海外でいろいろな事業をやっているんですが。」
普通、小さな地方の企業は、波止場の半分を所有したりしないし、所有権を半ダースのダミー企業に分散させるような真似もしないだろう。
イマリに表と裏があることは、掘削現場を見学したその日に察しがついた。
クレイグにもらった名前の住所に行って見ると、そこは古ぼけた3階建てのビルだった。
海運業者が集まる地区の真ん中に建っており、周囲には貿易会社とか、船舶海上輸送会社とか、造船・修理会社といった看板が並んでいた。
長い社名を掲げた活気あふれるビルが連なるなか、表玄関にイマリ・ジブラルタルという黒いブロック体が書き付けられただけのコンクリートの建物は、薄暗さと人気のなさも手伝って異様な雰囲気を漂わせていた。
中に入ると、敏捷そうな受付嬢が直ぐに立ち上がって言った。
「おはようございます。ミスター・ピアーズ。ミスター・クレイグがお待ちです。」
引きずっている足を見てわかったか、あるいは滅多に客がこないのかのどちらかだろう。
そこは軍の大隊司令部を思い起こさせるようなオフィスだった。
攻め落とした都市に即席で設置され、新たな土地を奪取したり、撤退が必要になったりすると直ぐに放棄される場所。
つまり、定着することを前提としていない場所だ。
クレイグは愛想よく私を迎え、興味を持ってくれてとても嬉しいと言った。
予想通りケインの姿はどこにもなかったが、もっと若い、おそらく私と同じ20代後半と思われる男がいた。
彼は驚くほどケインによく似ていた。
とりわけ、相手を見下したような薄笑いが。
クレイグは私の考えを読み取ったようだった。
「パトリック・ピアーズ、こちらはリュトガー・ケインです。彼の父親には会いましたよね、私から見学してくれるように頼んだのです。あなたと一緒に働くことになりますから。」
私たちは握手をした。
彼は力を込め、歯を食いしばらんばかりに私の手を握り締めた。
数ヶ月間も寝たきりだった私は、手を引っ込めるしかなかった。
ケイン・ジュアは満足したようだった。
「やっと来てくれたな、ピアーズ。もう何ヶ月も、新しい鉱山技師を探してくれるようパパに頼んでたんだぜ。このくだらない戦争のせいですっかり足止めを喰っちまった。」
そういうと、椅子にふんぞり返って足を組んだ。
「ガートルード!」
彼は振り返り、戸口にやって来た秘書に言った。
「コーヒーを持ってこい。コーヒーは飲むか、ピアーズ?」
私は彼を無視し、クレイグにキッパリと言った。
「私の条件は明快だったはずです。掘削現場の指揮は私が執ります。この仕事を引き受けるとすればですが。」
クレイグは両手を上げてリュトガーを止め、私たちを宥めるように早口で捲し立てた。
「もちろん、その点に変更はありません、ミスター・ピアーズ。リュトガーはもう10年近くもこの仕事に携わっているんです。何しろ坑道の中で育ったようなものですからね。2人は色々と共通点も多いでしょう。その聞いた話から想像するとですが。いえ、2人で力を合わせてもらいたいということですよ。彼がいれば貴重な助言をしてもらえるし、彼の知識とあなたの掘削技術を合わせれば、あっという間に掘り終わるでしょう。そうでなくても、目覚ましい進展があるのは間違いありません。」
彼はトレイを手に慎重に入って来た秘書を止めた。
「ああ、ガートルード、そのコーヒーを魔法瓶に移してもらえるかい?持っていきたいんだ。それから、ミスター・ピアーズには紅茶を用意してくれ。」

坑道の入り口はイマリのオフィスから1、5キロほどのところにあった。
海沿いのロックの隣に建つ倉庫の中だ。
そこは2棟続きの倉庫だった。
内部は一つにつながっているのだが、正面の壁や屋根が分かれているため、通りからは倉庫が2棟あるように見えるのだ。
もし1棟の倉庫でこれだけの広さがあれば、かなり目立って人々の好奇心を掻き立てていただろう。
だがありふれたサイズの倉庫が2棟並んでいるだけなら、特に注目されることはない。
広大な倉庫の中では、肌の色が薄めの黒人4人が待っていた。
多分モロッコ人だと思われた。
私たちを見ると、彼らは壁際の真ん中に建つ小屋のようなものから黙々と防水布を外し始めた。
下から現れたのは、小屋などではなかった。
坑道の入り口だ。
壁に巨大な口がポッカリと開いている。
垂直方向の穴だとばかり思っていたが、驚くのはまだ早かった。
ヘッドライトが付いたトロッコがあった。
それに太い2本のレールが坑道の奥へと延びている。
きっとこれで大量の土砂を運び出しているのだろう。
クレイグが空の運搬車を指差し、その指を倉庫の扉の方にある港へ向けた。
「昼の間に掘って、夜間に運び出すんですよ、ミスター・ピアーズ。」
「土を捨てるということですか…」
「この海にね。ですが、満月の晩などは船で遠くへ運びます。」
なるほど、大量の土砂を処分するには、それしか方法がないのだろう。
近づいてじっくり坑道を観察した。
太い坑木で支えられているのは、ウエストバージニアと同じだが、材木から材木へとずんぐりした黒いコードが渡されており、それが目の届く限りずっと奥から続いていた。
コードは2本あり、坑道の壁に1本づつ走っていた。
向こうにある左側のコードは…電話機につながっているようだ。
右のコードは、最終的に支柱に取り付けられた箱の中に潜り込んでいた。
箱には金属のレバーがあり、何かのスイッチのように見えた。
まさか電気だろうか?
モロッコ人が防水布をすっかり外して脇へ放ると、リュトガーが大股で近付いて行って、ドイツ語で何か怒鳴り始めた。
私も少しならドイツ語ができるし、特に発砲を命じるときにも使う、火という単語は嫌でも耳に入って来た。
その響きに私の肌が粟立った。
リュトガーがトロッコとレールを順に指差した。
男たちは戸惑った表情を浮かべている。
この叱責が、私に見せつけるためのものだということは明らかだった。
そちらに背中を向け、彼の茶番劇からも辱めを受ける男たちからも目を背けた。
リュトガーが何かを取りにいく音と、レールが鳴らす金属的な音が聞こえた。
振り返ると、彼は丸い紙の袋で覆われた蝋燭に火をつけていた。
紙袋は皿くらいのサイズの小さな軌道車に載っている。
リュトガーがそれをレールの一本に取り付けた。
そしてモロッコ人たちにも手伝わせ、その皿と火をパチンコ式の装置で、勢いよく暗い坑道に送り込んだ。
紙袋で覆うのは、風圧で火が消えるのを防ぐためなのだ。
1分ほどすると、遠くからボンという爆発音が聞こえて来た。
可燃性ガスだ。
おそらくメタンのガスだまりがあったのだろう。
リュトガーが次を発射するよう合図すると、モロッコ人たちは赤々と火が燃える皿形軌道車を手にレールへ駆け寄った。
私は感銘を受けていた。
残念ながらウエストバージニアのやり方はかなり後れている。
ガスだまりにぶつかることは、ピンを抜いた手榴弾に遭遇するのと同じだ。
なす術もなく一瞬にして、大爆発に巻き込まれてしまう。
もし火から逃れられたとしても、次は落盤が待っている。
それにしても、ここは危険な現場だ。
2度目はもっと深い場所から、爆発音が聞こえて来た。
モロッコ人が3発目を取り付けて発射した。

続く→

【バイオハザード】鬼に金棒、BCGバンザイ!日本人が武漢コロナに罹りにくい原因はBCG接種にあった!?

2020.03.28.17:29

【バイオハザード】鬼に金棒、BCGバンザイ!日本人が武漢コロナに罹りにくい原因はBCG接種にあった!?


https://quasimoto3.exblog.jp/240210026/


第二進化・アトランティス・ジーン(1)A・G・リドルー45

2020.03.26.20:49

彼女だろうか、誰かが何かを読む声がしていた。
デヴィッドは自宅のワンルーム・アパートのドアを開けた。
アリソンが顔を上げ、ステレオのところへ行って停止ボタンを押した。
「今日は早かったのね。」
彼女が微笑み、キッチンのシンクで手を洗い始めた。
「勉強に身が入らなくて。」
デヴィッドは身振りでステレオを示した。
「また朗読テープかい?」
「ええ、料理中の退屈しのぎに。」
彼女が蛇口を締めた。
「それじゃあ、料理より楽しいことをしよう。」
デヴィッドは彼女を抱き寄せ、唇にキスをした。
彼女は濡れた手を胸の前で浮かせたまま、身をよじって逃げようとした。
「ダメよ。ねえ、明日はオフィスの引越しなの。早く出なくちゃならないのよ。」
「へえ、大口の投資担当ともなると、早くも窓付のオフィスをもらえるのかい?」
「まさか、私のオフィスは104階よ。あそこで窓付のオフィスに入るには、あと20年はかかるわ。きっとトイレの隣の間仕切りで仕切られたスペースよ。」
「だったらなおさら、少しぐらい人生を楽しまなくっちゃ。」
デヴィッドは彼女を抱え上げ、ベッドに放った。
またキスをして、彼女の体に手を這わせた。
彼女の息遣いが荒くなった。
「明日の授業は何時から?ねえ11日火曜日の授業よ。」
デヴィッドはセーターを脱ぎ捨てた。
「さあな、知ったことか。」

77

報道発表

疾病対策センター(CDC)
米国ジョージア州 アトランタ クリフトン・ロード1600番地

緊急発表 
問い合わせ先
情報管理室、報道・電子媒体課 電話(404)639ー3286
インド北部の村落地域で新型インフルエンザが発生

インド保健家族福祉省から、「NⅡ4型プラン型」と呼ばれる新型インフルエンザ株が確認されたと言う報告がありました。
この株が既存のインフルエンザ株から変異したものか、全く新しいウイルスなのかはまだわかっていません。CDCは既に調査チームを派遣しており、インドの衛生当局とともに新型株の分析を勧めることにしています。
最初に発生が報告されたのは、インド・ダーチュラ付近の村落地域。
この新型株の重症度や致死率についても、今のところ情報はありません。
CDCは米国国務省に対し、現段階での渡航勧告は必要ないとの所見を伝えました。
NⅡ4プラン型のより詳細な情報が入り次第、追加発表を行う予定です。

78

チベット自治区 イマルの寺院

翌朝ケイトが目を覚ますと、ミロの姿はなく、朝食の入った鉢だけがこれまでどおりテーブルに置かれていた。
少し冷めてはいるものの、やはり美味しかった。
ケイトは板張りの部屋を出て、廊下へ行ってみた。
「ドクター・ケイト!」
ミロが叫びながら駆けて来た。
目の前まで来てようやく走るのをやめ、両手を膝について息を弾ませた。
「すみません、ドクター・ケイト。ちょっと…秘密の計画があって、その作業をしていたんです。」
「秘密の計画?ミロ、毎朝来てくれなくてもいいのよ。」
「わかっています、私がそうしたいのです。」
十代の若者は息を整えながら言った。
2人で眺めのいい木製の渡り廊下を歩き、デヴィッドの部屋に向かった。
「どんな作業をしているの、ミロ?」
彼が首をふった。
「教えられません、ドクター・ケイト。」
またイラズラでも計画しているのだろうかとケイトは思った。
デヴィッドの部屋に着くと、ミロはお辞儀をして回れ右をし、大急ぎで来た道を戻って行った。デヴィッドの容態にはほとんど変化はなかったが、少しだけ血色が良くなっているようにも見えた。
朝の抗生物質を飲ませ、また日記を開いた。

1917年8月7日

私は立ち上がり、ヘレナに案内されて小さなサンルームに入って来た2人の男に挨拶した。
私の顔には痛みの気配すら現れていないはずだった。
どんな仕事にも耐えられる、と言う印象を与えるため、今日は大粒の白い鎮痛剤を3錠も飲んで待っていたのだ。
もうすぐ正午という時刻で、高く昇った太陽が白い藤家具やサンルームに並ぶ植物を明るく照らしていた。
長身の男が前に出たかと思うと、ヘレナを追い越し、彼女からの紹介も待たずに話しかけて来た。
「ようやく我々と会う気になったようだな。」
ドイツ人だった。
兵士だろう。
冷酷そうな鋭い目つきをしている。
私が声を発する前に、塔のようにそびえる男の陰からもう1人の男が顔を覗かせ、手を差し出した。
「マロリー・クレイグです。ミスター・ピアーズ。どうぞよろしく。」
アイルランド人で、その割にはおどおどした人物だった。
ドイツ人が上着のボタンを外し、一言の断りもなく腰を下ろした。
「コンラッド・ケインだ。」
クレイグが小走りにカウチを回り込んで、ケインの隣に座った。
ケインは鼻にシワを寄せてそちらを向き、横にずれて体を離した。
「ドイツ人ですね?」
私は殺人者を咎めるような口調で言った。
間違っているとは思わなかった。
もし薬を飲んでいなければ感情を隠せたかもしれないが、隠せなかったことをむしろ喜んでいた。
「ふん、確かに生まれはボンだ。だが今は、政治的なことには一切興味がない。」
ケインは悠然とした顔で答えた。
まるで選挙の勝敗予想か何かを聞かれでもしたように。
まるで自分の国が、何百万の連合軍の兵士をガス責めにして殺している事実など、存在しないかのように。
彼は首を傾げた。
「つまり、もっと魅力的なものが世界に溢れているとなれば、誰もそんなものには興味は持てなくなるということだ。」
クレイグが頷いた。
「全くだ。」
ヘレナがトレイにのせたコーヒーや紅茶を私たちの間に置くと、ケインが私より先に口を開いた。ここは彼の家で、彼が私をもてなしているかのようだった。
「ああ、ありがとう、レディ・バートン。」
私は彼女に椅子を示し、「君も一緒に。」と言った。
ケインに誰がこの場を仕切っているかわからせてやりたかったのだ。
ケインの顔に不愉快そうな表情が浮かび、それを見て私の気分もいくらかスッキリした。
ケインがコーヒーに口をつけた。
「仕事が欲しいそうだな。」
「仕事を探しています。」
「うちでやってもらうのは特殊な仕事だ。誰にでもできるわけじゃない。口が固く、機転が効く者でなければ務まらない。」
そう聞いて真っ先に頭に浮かんだのは、諜報員の仕事だった。
ドイツ側の、そうであればいいと思った。
ベッド脇のテーブルには、まだ米国陸軍の拳銃がしまってある。
それを取り出してサンルームに戻ってくる場面を想像した。
「どう言った種類の仕事なんですか?」
ヘレナが沈黙を破るように言った。
「考古学調査だ。掘ってもらいたい。」
ケインは私から視線を逸らさず、じっとこちらの反応を伺っていた。
クレイグはほとんどケインの方しか見ていなかった。
彼は、まったくだ、を最後に、一度も口を挟まなかったし、この先も挟むことはなさそうだった。
「この地域でできる仕事を探しているんです。」
私は言った。
「それなら心配ない。現場はジブラルタル湾の地下だ。かなり深いぞ。掘削を始めてだいぶ経つからな。実際、もう40年以上になるだろう。」
ケインは相変わらずこちらが反応するのを待っていたが、私は何も返さなかった。
彼が私の目を見つめたまま、ゆっくりコーヒーを口に含んだ。
「ようやく見つかり始めたところだった。やっと…まともな進展があったのに、この戦争のせいで困ったことになっている。もうすぐ終わるとふんでいるが、それまで別の手段をこうじる必要が出て来た。だからここへ来て、こうして君に話を持ちかけているというわけだ。」
ケインがついに目を逸らした。
「危険はないんですか?」
ヘレナが聞いた。
「ない。そう、あの西部戦線よりは安全だ。」
ケインはヘレナが眉を潜めるまで待ち、それから手を伸ばして彼女の足を軽く叩いた。
「おやおや、ただの冗談だよ、お嬢さん。」
彼は笑みを浮かべて私に目を向けた。
「戦争の英雄殿を危険な目に合わせたりはしないさ。」
「これまで掘っていた人たちはどうしたんですか?」
私は聞いた。
「我々はドイツ人の掘削チームを使っていた。実に優秀なチームだった。だがこの戦争とイギリスのジブラルタル支配のせいで、事態が複雑になったのだ。」
私は先に聞くべきだった質問をした。
「何人くらい失ったんですか?」
「失った?」
「死んだかということです。」
ケインが素っ気なく肩を竦めた。
「1人も。」
それが嘘だということは、クレイグの顔を見ればすぐにわかった。
ヘレナは気づいただろうか。
「何を掘っているんですか?」
本当のことなど言うわけもないが、どんな口実を使うのか興味があった。
「歴史的なものだ。人工遺物というやつさ。」
ケインは噛み終わったタバコでも吐き捨てるように答えた。
「それはそうでしょうね。」
私は宝探しだろうと予想した。
おそらく沈没した海賊船か、貿易船が湾の底に埋もれているのだ。
よほどの価値があるに違いない。
40年以上もの歳月をかけ、しかも海底などという場所をわざわざ掘っているのだから。これは危険な仕事だ。
「報酬は?」
私は聞いた。
「週に50パピエマルクだ。」
50云々は笑い話だとしても、パピエマルクという単位には唖然とさせられた。
ドイツの戦況を考えれば、パピエマルクなど後1、2年で燃やす価値もなくなるだろう。
ドイツの家族は、パン1斤を買うために、手押し車いっぱいの紙幣を摘んでパン屋に行くことになるのだ。
「支払いは米ドルにしてください。」
「ドルも用意してある。」
ケインはあっさりと言った。
「それに金額もあげて欲しい。まずは5千ドル。それでとりあえずトンネルは見に行きますよ。」
私はヘレナに顔を向けた。
「もし掘り方が悪かったり安全対策がお粗末だったりしたら、5千ドルだけもらって出てくるよ。」
「実に見事に掘られているぞ、ミスター・ピアーズ。何と言ってもドイツ人が掘ったんだからな。」
「それから週に千ドル出してください。」
「馬鹿馬鹿しい。農民の仕事に国王並みの金額を出せというのか。」
「それこそ馬鹿げています。国王だか皇帝だか、帝王だか知りませんが、そんなものにはもう価値はありません。ですが、明確な指揮系統には値打ちがあります。人命を守ることができますからね。海底の坑道のような危険な場所では、尚更それが重要になるでしょう。もしこの話を引き受けて坑道に入れと言うなら、指揮権は私に渡してもらいますよ。そこは譲れません。愚かな人間に自分の命を預けるつもりはありませんから。以上が私からの条件です。交渉の余地はありません。」
ケインが鼻を鳴らしてコーヒーカップをおいた。
私は椅子にふんぞり返った。
「もちろん戦争が終わるまで待ちたければ、お好きになさってください。私も長引かないだろうと思います。そうなれば、またドイツのチームを送り込めるでしょう。まあ、ドイツ人が残っていればの話ですが…私は残らないと思いますがね。」
「私も君の条件は飲めないと思っている。」
そう言い放って立ち上がると、ケインはヘレナに頷き、困惑顔のクレイグを残して出て行った。
慎重派の男は腰を上げてしばし躊躇い、私と出ていく主人とを交互に見ていたが、やがてケインのあとを追いかけ始めた。。
ドアが閉まると、ヘレナは椅子の背にもたれて髪をかき上げた。
「ああ、死ぬほど怖かった。あなたが引き受けるんじゃないかと思って。」
彼女はしばらく天井を見つめていた。
「何かの調査のためにあなたを雇いたいと聞いたのよ。だから、あなたはとても知的だし、ぴったりの人材だと言ってしまったの。もし初めからあんなひどい話だとわかっていたら、家に入れたりはしなかったわ。」

続く→

第二進化・アトランティス・ジーン(1)A・G・リドルー44

2020.03.24.22:47

75

インド ニューデリー クロックタワー支局本部 危機管理室

ドリアンは室内を歩き回り、ドローンから映像が送られてくるのを待っていた。
並んだスクリーンが次々と明るくなって息を吹き返し、山腹に立つ一軒の寺院を映し出した。
技術者が振り返った。
「少し旋回して、最適なポイントを探しま…」
「その必要はない。あの土台の右側あたりに撃ち込め。大体でいい。火をつけるのが目的だからな。もう一機ドローンを旋回させて、様子を撮影しろ。」
ドリアンは言った。
1分後、ドリアンの見守る前で、ドローンから発射されたロケットが山の斜面に激突した。
彼は待った。
その燃える建物からケイト・ワーナーが走り出てくることを期待して。

76

チベット自治区 イマルの寺院

ケイトは日記を置いて首を伸ばし、何が起きているのかと遠方に目を向けた。
何かが爆発したような音だった。
それとも崖崩れだろうか?
地震があったとか?
一番遠い山脈の向こうに煙が上がっていた。
白い煙が次第に黒くなっていく。
まさか、イマリが探しに来たのだろうか?
もしそうだとしても、一体自分に何ができるだろう。
ケイトはデヴィッドに午後の分の抗生物質を飲ませ、彼のためにまた日記を朗読し始めた。

1917年8月5日

私とヘレナは暖かい海風が吹き寄せる石畳の波止場を散歩し、湾に入ってくる船や港についた船が鳴らす汽笛の音を聞いていた。
荒々しくそびえる(ジブラルタルの岩)の下では、木造の船着場がまるで積み重ねた爪楊枝のように小さく見えた。
私がポケットに手を入れると、彼女は私の腕に自分の腕を巻き付け、次第に体を寄せて私とぴったり同じ歩調で歩くようになった。
私はそれをいい兆候とみなした。
通りにはポツリポツリと明かりが灯り始めていた。
スペイン式のシェスタから起きてきた店主たちが、夕食時の混雑や、彼の買い物客に備えて支度を始めたのだろう。
一歩踏み出すたびに、足にナイフがねじ込まれる。
そういう感覚を覚えながら歩いていた。
重く響く痛みのせいで眉に汗が溜まっていたが、手を上げてそれを拭こうとは思わなかった。
彼女の腕が離れてしまうことが心配だったのだ。
ヘレナが立ち止まった。
その目が汗を見つめていた。
「パトリック、痛むの?」
「まさか、そんなことはないさ。」
私は袖で額を拭った。
「この暑さに慣れていないだけだ。ずっと扇風機がある室内にいるもんだから、なかなか適応できないんだろう。おまけに俺はウエストバージニア育ちだから。」
彼女が岩の方に顎をしゃくった。
「洞窟の中の方が涼しいわ。それにあそこにはたくさんの猿が住んでいるのよ。見たことある?」
私が冗談かと聞くと、彼女は本当だと断言した。
私は夕食までまだ時間があるので、そこへ連れて行ってくれと頼んだ。
なぜなら、彼女がまだ私の腕に手をかけていたからだ。
そうしてくれるなら、私はどこへでもいくつもりだった。
イギリス人の軍曹が、私たちのためにガイドをし、聖ミカエル洞窟の奥にある猿の檻まで案内してくれた。
私たちの声が洞窟に反響していた。
その猿は、バーバリーマカクと呼ばれる種類で、尻尾がない点を除けば、マカク属の猿によく似ていた。
ヨーロッパに野生の猿はいないとされている。
ということは、このジブラルタルのバーバリーマカクはヨーロッパに野生状態で生息している唯一の霊長類と言えるのだろう。
進化論を信じるなら人間も霊長類に入るらしいが、私自身は信じていいのかどうかよくわからない。
洞窟を後にして夕食をとりに向かいながら、彼女になぜ猿のことを知っていたのか聞いてみた。
「イギリス海軍病院が病気の猿を治療しているのよ。」
彼女が言った。
「冗談だろ。」
「本当よ。」
「危険じゃないのか?猿と人間を同じ場所で治療したりして。」
「多分大丈夫だと思うわ。猿の病気が人間に伝染するなんて、ちょっと考えられないもの。」
「なぜわざわざ猿なんか?」
「言い伝えがあるからよ。ジブラルタルのあのマカクがいる限り、イギリスがここを統治できると言われているの。」
「君たちは迷信深い質なんだな。」
「もっと単純に、大切に思うものは、世話をしたくなるのかもしれないわね。」
2人ともしばらく黙って歩き続けた。
もしかすると、彼女にとって私はペットのような存在なのだろうか?
あるいは保護すべき対象か。
それともただ単に、病院で助けてもらった借りを返そうとしているだけなのかも知れない。
痛みが堪えきれなくなっていた。
彼女が無言で足を止め、腕は組んだまま、湾に沈む夕陽に照らされた(ロック)の方へ私を向き直らせた。
「ロックにはもう一つ言い伝えがあるのよ。古代ギリシャの人々によれば、あれはヘラクレスがヨーロッパとアフリカを割ったときにできた柱で、その下にある洞窟やトンネルは地中深く、冥界の門までつながっているという話なの。」
「地獄の門か。」
彼女は悪戯っぽく眉をあげた。
「本当につながっていると思う?」
「いや、どうだろうな。ここから1700キロほどの場所に地獄があるのは確かだが。西部戦線の塹壕にな。」
彼女が表情を曇らせて、俯いた。
彼女は冗談を言い、私も気の利いた言葉を返そうとしたのだが、私のせいで戦争のことを思い出させてしまったのだ。
雰囲気が台無しになってしまった。
できることなら時間を遡って、やり直したかった。
彼女が明るさを取り戻し、私の腕を引き寄せた。
「でも、私としては、あなたがそこから遠く離れてくれて嬉しいわ…それに、もう戻らなくていいんだもの。」
私は口を開いたが、それを遮るように彼女が続けた。
私が何か憂鬱なことを言うと、思ったのかもしれない。
「お腹は空いてる?」

ワインが運ばれてくると、私は薬代わりのように立て続けに2杯飲んだ。
彼女はグラスに半分しか飲まなかった。
おそらくそれが作法なのだろう。
本当はもっと飲んで欲しかった…たとえ一瞬でも殻が破れれば、彼女が何を考え、何を感じているかわかるからだ。
とはいえ料理が出されると、私たちは揃ってその匂いを嗅ぎ、見た目を褒めていた。
「ヘレナ、ずっと君に話したいことがあったんだ。」
その台詞はやけに深刻に響いた。
彼女を身構えさせないよう、もっと砕けた雰囲気で切り出したかったのだが。
彼女がフォークをおき、微かに顎を動かして、口に入れたばかりの小さな一口を噛んだ。
私は先を続けた。
「君は寛大にも、私をずっと家に置いてくれた。これまでお礼を言ったかどうかわからないが、本当に感謝しているんだ。」
「大したことじゃないわ。」
「とても大変なことだよ。」
「そんなふうに感じたことはないわよ。」
「それでも、そろそろ自分の家を見つけるべきだと思う。もう…回復期は過ぎたんだから。」
「もう少し様子を見た方が安全よ。完全に治ったとは言い切れないでしょう。ドクター・カーライルも歩いているうちにまた悪くなる可能性があると言っていたじゃない。」
彼女は皿の料理をフォークでいじっていた。
「俺が心配しているのは足のことじゃない。世間の噂だよ。未婚の男女が、一つ屋根の下に住んでいるわけだからね。」
「噂なんて気にし始めたらキリがないわ。」
「だが、君を話題にして欲しくないんだ。住む場所が見つかったら仕事も探したいと思っている。自分の生活を立て直していかないと。」
「でも勤務地が分かるまで待つ方が、理にかなっていると思うけど。先にあれこれ決めてしまわずに。」
「それはそうだが。」
彼女がわずかに顔を明るくした。
「そのことだけど、実は、仕事の件であなたと話したがっている人たちがいるの。父の友人なんだけど。」
自分でも驚いたことに、私は怒りを隠しきれなかった。
「お父さんに、俺の仕事を見つけてくれと頼んだんだね。」
「頼んでないわ。本当よ、頼みたかったけど、あなたがどう感じるかわかっていたもの。1週間前に父の方から電話して来たのよ。先方はとても熱心らしいんだけど、あなたの心づもりがわからないから待ってもらっていたの。」
「まあ、会うだけなら、問題はないと思うが。」
私は言った。
それが、人生最大の過ちだった。

続く→

第二進化・アトランティス・ジーン(1)A・G・リドルー43

2020.03.24.22:46

74

チベット自治区 イマルの寺院
ミロは翌朝も昨日と全く同じ姿で、ケイトを待っていた。
いったいいつから、ああしてじっと座って待っているのだろう?と、ケイトは思った。
起き上がってみると、やはり昨日と同じ場所に朝食の鉢が置かれていた。
2人は朝の挨拶を交わし、ミロがまたデヴィッドの部屋へケイトを連れて行った。
日記はベッド脇のテーブルにあったが、それを無視してまずはデヴィッドの元に行った。
抗生物質を飲ませ、肩と足の傷を調べた。
夜のうちに傷を縁取る赤い輪が広がり、胸や太腿の上部にまで達していた。
ケイトは頬の内側を噛み、窓の外を見つめた。
「ミロ、あなたに手伝ってもらいたいの。とても重要なことよ。」
「最初に会ったときに言いましたよ、マダム。」
ミロがまたお辞儀をした。
「ミロはあなたのお世話をするためにいるのです。」
「あなたは血を見ても、平気な方?」

数時間後、ケイトはデヴィッドの肩にしっかりと包帯を巻きつけていた。
テーブルの鉢には血と膿がたまり、血を吸ったガーゼも山と積まれていた。
オペ室看護師とまではいかないものの、ミロの働きぶりは見事で、とりわけ彼の何事にも動じない精神力がケイトの神経を鎮めるのに、大いに役立ってくれた。
包帯を巻き終えると、ケイトはデヴィッドの胸を撫でて、深いため息をついた。
あとはもう、待つことしかできない。
アルコーブの壁に寄りかかり、デヴィッドの胸の上下運動を見つめた。
注意しないとわからないほど弱い動きだった。
やがてケイトはまた日記を開いて、読み上げ始めた。

1917年6月3日

「これはどうかね?」
ドクター・カーライルは、ペンで私の足を押しながら言った。
「ええ。」
私は歯を食いしばって答えた。
彼がペンを下の方へ移動させ、また突き立てた。
「ここは?」
「舌打ちしたいぐらいです。」
彼は体を起こし、触診の結果について、黙考し始めた。
脚を見る前に、彼は時間をかけて背景を聞き取っていた。
これは戦場の軍医とは違う、歓迎すべき行動だった。
軍医は人には目を向けずに、傷だけを見て、大抵は一言も口を聞かずに治療するのだ。
私は自分が26歳であること、他に悪いところはなく、何かの依存症でもないこと、そして、西部戦線のトンネル崩落でこの怪我を負ったことを話した。
彼はうなずき、入念に診察してくれた。
自分の病院に来る坑夫や運動選手の怪我と、それほど違いはないとも言っていた。
私は何か言うべきだろうかと思いながら、じっと彼の診断を待っていた。
都会の医師が頭をかき、ベッドの傍らに腰を下ろした。
「そうだな、私も軍医の意見に賛成だと言うしかなさそうだ。そのときに切ったほうが良かったかもしれない。膝から下だけだがね。少なくとも、私ならそこから始めたよ。」
「それで今は、どう言う状態ですか?」
答えを聞くのが怖かった。
「今はなんとも言えないな。もうその足で歩くことはできないだろうし、できても普通に歩くのは無理だろう。問題は君がどれだけ痛みを感じるかなんだ。神経がかなり損傷を受けていることは確かだからね。今後できる範囲で、歩いてみることを勧めるよ。1、2ヶ月は試してみるといい。もし痛みが耐えられないようなら、まあ、そうなるとは思うが、膝から下を切断しよう。痛みは足に集中しているようだし、元々神経が多い場所だから、切除すればいくらか楽になるだろう。」
私の悲観を見越したのか、彼はこう付け加えた。
「無論、痛みさえ解消すればいいと言うものじゃない。喪失感という問題もある。誰だって足の半分を失うのは辛いだろう。だが、それで自分の価値が減るなどと言うことはないだよ。現実的に考えることが重要だ。きっといつか自分に感謝する日が来る。残る問題は、今後どう言う仕事をするかだろうな。大尉、いや、少佐だったかね?君のような若い少佐は見たことがないものだから。」
「周りの人間が皆死んでしまえば、誰でも早く出世しますよ。」
私は言った。
もう一つの問いに答えるのを、先延ばしにしたかったのだ。
あの崩落以降、まともに向き合うことを避けてきた問題。
私は鉱山しか知らない人間だ。
「まだ何をしたらいいか、わからないんです。歩けるようになったあと。」
それが咄嗟に出てきた言葉だった。
「君にはデスクワークのほうが、その、体質として合っているだろうな。もし見つかればだが。」
彼は頷いて、立ち上がった。
「では、もう何もないようなら、また1ヶ月後に電話か手紙をよこしなさい。」
そう言うと、ロンドンの住所が書かれた名刺をくれた。
「本当にありがとうございました、ドクター。」
「まあ、バートン卿の頼みとあっては断れないさ。彼とはイートン校時代からの仲なんだ。おまけに君は戦争の英雄で、彼のお嬢さんがどうしてもと言って譲らないと言うじゃないか。私が診察しないと、お嬢さんが傷つくかもしれない、などと聞かされてはな。翌日には汽車に飛び乗っていたよ。」
廊下の方で大きな音がした。
誰かが棚から物を落としたような。
ドクター・カーライルも私をちらりと振り返ったが、どちらも何も言わなかった。
彼は黒い鞄を持ち上げた。
「包帯の巻き方はヘレナに教えておく。幸運を祈るよ、少佐。」

1917年8月5日

2ヶ月が過ぎ、私が歩くようになって一月がたった。
とは言っても、ほとんど引きずっているだけなのだが、しかも、調子がいい日には杖を使ってノロノロ進める、と言う程度でしかない。
1週間前にカーライルが来て、私の情けない姿を見て言った。
彼はヘレナの隣に立ち、犬の品評会にいる得意げな飼い主のように、私に声援を送った。
いや、これでは不当な言いがかりだな。
それに意地が悪い…彼はひたすら思いやりを示してくれていると言うのに。
鎮痛剤。
これを飲むと痛みも何もかも鈍くなる。
思考も含めて。
効いているときには感情に振り回されずに済むが、切れると蜂が一斉に襲ってくるような苦痛がある。
内なる戦争を戦うと言うのは、一種の拷問だ。
これならドイツ皇帝の臣下を撃っているほうが、よほどマシかもしれない。
少なくとも自分の立場がはっきりしているし、前線から退けば休息を取ることもできるのだから。
鎮痛剤を口に放り込み、足を引きずりながら歩く数週間の間に、私には新たな恐怖が生まれてしまった。
私の背中に覆いかぶさり、痛みを消せとひっきりなしに命じてくる獣を、一生追い払えないのではないかと言う恐怖。
薬が必要だし、ないと我慢できないし、我慢したとも言えない。
アヘンという悪魔を手放したあと、私には二つの支えが必要になった。
一つは足の傍にあり、もう一つはポケットに入っている。
カーライルはうまく歩けるようになるには、脚との付き合い方を覚えることが不可欠だと言った。
そして鎮痛剤の服用量を最低限に設定した。
全く、口で言うには簡単だ。
しかしここに来て数ヶ月の間に、私が最も執着を抱くようになったのは、鎮痛剤ではなかった。
彼女は今まで出会ったどんな人間とも違う。
ここを出る日や別れを告げる日のことを考えると、恐ろしくなる。
自分の望みならわかっている。
彼女の手をとって船に乗り、ジブラルタルからも戦争からも、過去からも遠く離れて新たなスタートをきりたいのだ。
どこか安全で、世界のことなど何も気にせずに、子供たちを育てられるような場所で。

もうすぐ3時になる。
今日は朝から薬を飲んでいない。
彼女と話すときは頭をはっきりさせておきたいからだ。
たとえ足が痛くても、心が痛んでも、何一つ見逃したくはない。
意識を研ぎ澄まさせる必要があるだろう。
禁欲主義と渇いたユーモアのセンスを持つイギリスで育ったからなのか。
それとも、感情的になればそれが伝染病のように広がって、危険をもたらす兵站病院という場所で2年間も働いているからか。
とにかくあの女性は、ほとんど感情を表に出さないのだ。
笑うし、微笑むし、生き生きとしているが、我を忘れるようなことは決してない。
口を滑らせることも、思わず顔色を変えてしまうようなこともない。
もし私に対する彼女の本当の気持ちがわかるなら、残っているもう1本の足だって差し出すだろう。
ずっと自分のできることを考え、準備も整えて来た。
あの忌々しいダミアン・ウエブスターがきた翌日、私は手紙を3通書いた。
1通目はチャールストンのファースト・ナショナル・バンク宛で、父の口座の預金をエルキンズのウエストバージニア養護施設に寄付する旨を伝えるものだった。
2通目は養護施設に送り、寄付する予定があることと、もしその遺産が届かなければダミアン・ウエブスターに連絡しろということ。
さらに最後に口座を任されていたのは彼だということを伝えておいた。
彼らはちゃんとお金を受け取って欲しかったのだ。
そして3通目は、私の預金があるチャールストンのシティ・バンクに送っていた。
返事は1週間半後に届いた。
それによると、私の口座の残高は5752ドル34セントで、手数料を払えば全額を銀行小切手にして、ジブラルタルに送ってくれるということだった。
銀行は口座を解約するとなると法外な金を取ることがよくあるので、今回もそんな話になるとばかり思っていたのだが。
私は直ぐに返事を書いて礼を伝え、できるだけ早く銀行小切手を送ってくれるように頼んだ。
配達人が小切手を運んできたのは昨日のことだ。
私は軍からもわずかばかりの給料を受け取っていた。
隊から離れている間の給料は、その大半を軍が預かるものなのだが、それを全て払ってもらったのだ。
私は先週名誉除隊になったので、軍から送られてくる金はそれが最後というわけだった。
そんなわけで、私の手元には合わせて6382ドル79セントの金が揃っていたが…そんな額ではとても結婚して食べていくことなできない。
座ってできる仕事を見つける必要があった。例えば、銀行や投資関連の仕事で、鉱山や軍用品に関わるのであれば、私にもできるかもしれなかった。
だが、その種の仕事につける人間は限られている。
適切なコネを持ち、適切な教育を受けていなければならないのだ。
もし私に資金があれば、自分で事業を始めることもできるだろう。
そしえ、いくらか幸運に恵まれ、うまく鉱脈を…石炭や金、ダイヤモンド、銅、あるいは銀でもいい…堀り当てられれば、もう金の問題で悩む必要はなくなるだろう。
目標金額は2万5千ドルだった。
失敗できる余裕はほとんどない金額だが。
ヘレナがドアを開ける音がした。
彼女を迎えようと、小さな控えの間に行った。
看護婦の制服に血が飛び散っており、その姿が、私を見た途端に浮かべた彼女の優しい笑顔を奇妙なほど際立たせていた。
彼女の微笑みが哀れみによるものなのか、幸せから生まれるものなのか、それがわかるならどんなものでも差し出すだろうに。
「起きていたのね、この服のことは気にしないで。直ぐに着替えてくるわ。」
そういうと、彼女は急いで部屋を出て行った。
「ちょっとおしゃれをしないか。」
私は声をかけた。
「散歩をして、それから夕食を食べに行こう。」
彼女が寝室の戸口から顔を覗かせた。
「本当?」
大きくなった微笑みに、ほんの少し驚きが混じっていた。
「あなたの制服も出しましょうか?」
「ありがとう。でもいいんだ。もう制服に用はない。今夜は未来を見たいんだよ。」

続く→


第二進化・アトランティス・ジーン(1)A・G・リドルー42

2020.03.22.22:15

「それでよろしいですか?ミスター・ピアーズ?」
「え?」
「チャールストンのファースト・ナショナル・バンクの口座ですよ。あなたのお父様は大変な倹約家でした。口座には二十万ドル近い預金があります。」
度が過ぎた倹約家だった。
ウエブスターは見るからに苛立っており、私から反応を引き出そうとさらに続けた。
「あなた名義の口座ですよ。遺言書はありませんが、兄弟姉妹もおられませんし、特に問題はないでしょう。」
彼はまた少し待った。
「こちらの銀行に預金を移すこともできます。」
そういうと、横目でヘレナを見た。
「もしイングランドに移す方がよろしければ…」
「ウエストバージニア養護施設に送ってください。エルキンズにあります。彼らが口座の残高のすべてを受け取れるようにしてほしい。それから送り主が父であることも、わかるようにしてください。」
「ああ、それは…可能ですが。理由をお聞きしてもいいですか?」
本当の理由を答えるなら、父は私に譲りたくないはずだからだとか、もっと正確に、父は私の生き方を気に入っていなかったからだと、いうことになるが、どちらも口にはしなかった。
ヘレナが部屋にいるためかもしれないし、もしくはこんなインチキ弁護士に正直に答える必要はないと思ったからかもしれない。
いずれにせよ、私は大雑把な返事でごまかした。
「父はそれを望むだろうから。」
彼は私の足に目をやり、適切な言葉を探した。
「大変素晴らしいことですが、しかし軍人恩給は…そう多くはないでしょう。たとえ少佐でも、少しはお金を蓄えておくべきですよ、そう、十万ドルは残しておきませんか?」
私はまっすぐに彼を見つめた。
「そろそろ、ここへきた本当の理由を言ったらどうですか?わざわざ二十万ドルの遺産のために、来たわけではないでしょう?」
彼はギョッとしたようだった。
「もちろんです、ミスター・ピアーズ。私はただ…あなたのためを思っただけなんです。ここへ来たのも、そういう思いからなんですよ。実は、ウエストバージニア州知事、ヘンリー・ドルーリー・ハットフィールドから伝言を預かって参りました。知事があなたに…いえ、まずは心からお悔やみを申し上げたいとのことです。お父様のことは、州と国家にとって大きな損失でした。その上で知事は、合衆国上院議員であったお父様の後任に、あなたを任命したいと申しております。知事は先日、補欠選までの臨時議員を指名する臨時任命権を州議会から与えられたのです。」
私はなぜ真っ当な人々が、この狡賢い連中を毛嫌いするのか分かり始めていた。
ヘンリー・ハット・フィールドは、この悪名高いハットフィールド一族のボス、デヴィッド・ハットフィールドの甥だ。
今は州知事だが、知事は二期連続で立候補することができない。
2年前には彼自身が、当の合衆国上院の席を狙っていたのだが、その前年に、合衆国議会が憲法修正第17条を承認してしまった。
これは上院議員も州民による直接選挙で選ぶことを決めた条項で、その結果、いくらハットフィールドのような策略家が州議会議員を買収しても意味がなくなってしまったのだ。
一方、私の父は選挙で選ばれ、合衆国上院の第一部の議員になった。
父の死とあの金の話、だんだん話が見えてきたが、彼が私を任命したいとは、どういうことだろう。
ウエブスターが謎を明かすまで、そう長くはかからなかった。
彼はベッドのフットボードによりかかり、今や旧知の仲であるかのように喋り出した。
「当然ながら、戦争の英雄であるあなたなら大衆に受けるでしょう。いずれ補欠選挙があります。ご存知でしょうが、今は上院議員も一般選挙で選ばれますからね。」
彼は頷いた。
「もちろんそうあるべきです。今申し上げたように、知事は補欠選挙まであなたをお父様の空席に着かせたいと考えています。もしあなたが、その補欠選挙で知事を推薦し、選挙運動を手伝ってくれるならということですが。その見返りに、知事はその後のあなたのキャリアについても後援を行うつもりです。例えば合衆国下院議員に立候補させるとか。パトリック・ピアーズ下院議員、どうです?いい響きじゃありませんか?」
彼はベッドのフレームを押して真っ直ぐに立ち、私に笑いかけた。
「それで知事には、いい知らせを持って帰れるでしょうか?」
私は彼を睨みつけた。
かつてこれほど立ち上がりたいと思ったことはなかった。
この悪霊を玄関まで連れて行き、外へ放り出してやりたかった。
「確かに理想的とは言えない状況でしょう。ですが我々は、力を合わせて困難を乗り越えるべきです。」
ウエブスターが顎をしゃくって、足を指さした。
「それに、あなたの肉体的制限を考えれば…まさにうってつけの仕事ではありませんか。これ以上いい仕事など見つけられっこない…」
「出ていけ。」
「ミスター・ピアーズ、もちろん…」
「聞こえただろう。そして2度と戻ってくるな。いくら待っても俺の答えは変わらない。あの悪党のハットフィールドに言っておけ。汚い仕事は自分1人でやるか、いとこでも使えとな。そういう仕事が得意な連中ばかりだと聞いているぞ。」
彼がこちらへ近づいてきたが、ヘレナがその腕を掴んだ。
「こちらです。ミスター・ウエブスター。」
彼が去った後、彼女が戻ってきた。
「ご両親のこと、本当に残念だったわ。」
「俺もだよ。母はとても優しくて、愛情深い人だったんだ。」
きっと彼女は、私の悲しみがどれほど深いか理解してくれているのだろう。
だが、いつまでも悲しみに囚われているわけにはいかない。
「何か、必要なものはある?」
本人は気づいていないかもしれないが、彼女の視線が一瞬、例の瓶が置かれていたベッド脇に向けられた。
「ああ、医者を呼んでくれ。脚を診てもらいたいんだ。」

73

インド ニューデリー  クロックタワー支局本部 危機管理室

ドリアンはドアのそばをうろつきながら、危機管理室を眺めていた。
まるで打ち上げを待つNASAの宇宙管制センターのようだった。
ずらりと並んだ分析員たちが、ヘッドセットに何やら話しかけ、コンピューターでドローンを操作している。
壁一面を埋めるスクリーンには、あちこちにドローンから送られてくる遠隔情報が映し出されていた。
山や森の映像だ。
捜索を指揮しているのはドミトリーだった。
がっしりとした体格のそのロシア人は、あの中国の爆発以降、一睡もしていないように見えた。
彼は分析員たちを押し除けるようにして、部屋の奥にいるドリアンの元へやってきた。
「今のところ何も発見できません。捜索範囲がかなり広いものですから。」
「監視衛星はどうなっている?」
「まだ待っている段階です。」
「なぜだ?何をそんなに手間取っている?」
「衛星を動かすのは時間がかかり過ぎますし、監視対象も広範囲になりますので。」
ドリアンは壁に並ぶスクリーンを眺めた。
「木を揺らしてみろ。」
「揺らす?」
「焼き払うんだ。」
そう言うと、ドミトリーを連れてドアの方に向かい、分析員に会話を聞かれない位置まで行った。
「何が落ちてくるか確かめてみるんだ。俺の予想では、ワーナーはあの変にある寺院のどれかに潜んでいる。トバ計画の方はどうだ?」
「死体を運んだ飛行機がヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリア、中国に向かっています。生存者はインドの地元の病院にいます。」
彼が腕時計に目をやった。
「1時間以内には、バングラディッシュにも到着するでしょう。」
「何か報告は?」
「今のところは何も。」
いずれにしろ、いい知らせが聞けたことは間違いない。

続く→

第二進化・アトランティス・ジーン(1)A・G・リドルー41

2020.03.22.22:14


71

インド、ニューデリー   クロックタワー支局本部 大会議室

ドリアンは列車2本分の乗客、死者名簿に目を通した。
「アメリカにもっと死体を送りたい。ヨーロッパはこれでいいだろう。」
彼は頭をかいた。
「多分、日本もこれで十分だ。人口密度が高いからな。」
できればチャンあたりの科学者に相談したかったが、情報を知るものは限定しなければならなかった。
ドミトリーが名簿を眺めた。
「割り当てを変えることはできますが、どこを減らせばいいですか?」
「アメリカと中国だ。どちらも動き出しが鈍いだろうからな。中国は国民の健康問題を無視するか隠す傾向があるし、アフリカは単純に、疾病に対処するためのインフラがない。」
「だから拡散もしないわけですが。それもあって、割り当てを…」
「先進国に集中させるんだ。彼らは強敵になるだろう。疾病対策センターを甘く見るなよ。連中は発生と同時に動き出すからな。アフリカは後からでも、十分に間に合うはずだ。」


72

チベット自治区 イマルの寺院

ケイトはデヴィッドの頭を支え、陶器のコップの水で抗生物質を流し込んだ。
彼の口から水がひと筋漏れたので、それを自分のシャツで拭った。
デヴィッドは午前中いっぱい、意識を取り戻したり失ったりを繰り返していた。

再び、日記を開いた。

私は手に蝋燭を持ち、部下たちを連れてトンネルの中を進んで行った。
目的地はすぐそこだったが、私はふと足を止め、手を上げて背後の部下たちを急停止させた。
何か音がしなかっただろうか?
地面に音叉を刺して目を凝らし、答えを待った。
これが震えれば、すぐ近くでドイツ軍がトンネルを掘っているということだ。
私たちは彼らのトンネルと繋がることを恐れ、すでに2度も掘り進めた道を放棄していた。
2度目の時は、彼らの作業を妨害できればと、真下で火薬を爆発させてやった。
音叉に反応はなかった。
工具ベルトにそれを戻し、重い足取りでさらに闇の奥深くへと潜った。
蝋燭の火が土と石の壁に淡い影を映し出し、土埃と小石が行進する私たちの頭に落ちてきた。
不意に、降り続いていた土埃の雨がやんだ。
どういうことか確かめようと、頭上を見上げて蝋燭を近づけた。
私が振り返って「走れ!」と叫んだ時には、天井が崩れてパニックがなだれ込んでいた。
地面に投げ出された私の手の中で、蝋燭のか細い火が消えた。
落ちてきた土砂や岩が足を打ち砕き、私の意識を奪おうとした。
ドイツ兵が降りてきた。
私の上に立つ格好でいきなり銃を撃ち始め、瞬時に部下2人を殺してしまった。
彼らの機関銃が散らす花火と、死んでいく男たちの悲鳴だけが、私に大虐殺の事実を伝えていた。
腰の拳銃を抜き、至近距離から発砲して初めの2人を殺した。
彼らは私が死んでいると思ったか、暗くて見えなかったに違いない。
さらにドイツ兵がなだれ込んできたので、彼らも撃った。
5、6、7人を仕留めたが、その流れは途絶えることがないようだった。
一個連隊がこのトンネルに押し寄せ、連合国の防衛線を突破しようとしているのだ。
これは大量殺戮になるだろう。
その時、弾が切れた。
空の拳銃を脇に放り、手榴弾を取り出した。
歯でピンを抜いて力を振り絞り、頭上を走るドイツ軍のトンネルの、今まさに流れ落ちようとしている兵士たちの足元に投げ込んだ。
長い2秒が経つ間に、男たちが銃を撃ちながら降りてきたが、次の瞬間には爆発が彼らを吹き飛ばしていた。
彼らのトンネルも崩れ、私の周りには二つ分のトンネルが降ってきた。
身動きが取れなかった、起き上がれない。
もう2度とここから出られないだろう。
土砂や岩が私を生き埋めにしようとしていたが、その時、不意に、誰かの手を感じた。
あの看護婦がそこにいて、私の頭を押さえながら眉の汗を拭いていた。
「奴らが待ち伏せしていたんだ。夜の間いにトンネルをつなげて…一瞬のことだったから…」
私は説明しようとした。
「もう全部、終わったのよ。悪い夢を見ただけ。」
私は足に手を伸ばした。まるで、そこに触れれば脈打つ痛みが消えるとでもいうように。
悪夢は終わっていない。
永遠に終わることはないだろう。
発汗と痛みは夜ごとに酷くなっていった。
彼女はそれに気付いていたのだろう。
だから決めたのだ。
彼女の手には白い瓶があり、私はこう言った。
「ほんの少しにしよう。いつまでも続けるわけにはいかないからね。」
一息に飲み込むと、猛獣が引き下がっていった。
私はようやく眠りらしい眠りにつくことができた。

目を覚ますと彼女がいて、部屋の隅で編み物をしていた。私の傍のテーブルには、茶色の液体が入った小さなショットグラスが3つあった。
アヘンを滲出させた混合液が、1日分並んでいるのだ。
そこに含まれるモルヒネとコデインを私は痛切に必要としていた。
ありがたい。
また汗が吹き出し始め、痛みも戻ってきている。
「日が暮れる前に戻るわ。」
私は頷いて、1杯目のショットグラスを手に取った。

ショットグラスは1日2杯になった。
毎晩、仕事から戻って夕食を食べた後、彼女は私に本を読んでくれた。
私は横になったまま、時々気の利いた意見やウイットに富んだ感想を口にした。
彼女は声を立てて笑い、私があまりに無作法なことを言った時は、いたずらっぽく私を叱った。
痛みはどうにか耐えられる程度になってきた。
ショットグラスが1日1杯になった。
もうすぐ自由だ。
そうは言っても、痛みはしつこく残っている。
まだ歩くことはできない。

私はこれまでずっと、暗くて狭い坑道で、人生を過ごしてきた。
だがもう耐えられないだろう。
原因は光か、新鮮な空気か。
あるいは昼も夜もベッドで寝ている生活が続いたからか。
あれから1ヶ月が過ぎた。
毎日3時が近づくと、私は後何分で彼女が帰ってくるかを数え始める。
女が帰宅するのを待つ男、そう聞くと、一体どんな状況なのかと首を傾げるものもいるだろう。
彼女には病院を辞めるように何度も言った。
病原菌、爆弾、排外主義者、あらゆる説得を試みたが、彼女は耳をかさなかった。
私が勝てないのも無理はない。
何しろ自分で立つこともできないのだ。
一歩も退かずに反対したくても、そのための足がないではないか。
しかもこんな風に、不自由な足を冗談にして、1人笑ってしまうほど、ヤケになっている。
窓に目をやると、小道をやってくる彼女の姿が見えた。
今何時だ?2時半。
いつもより早い、それに、男が一緒だ。
ここにきて一月の間、彼女が求婚者を連れてくるようなことは一度もなかった。
私も彼女にそんな相手がいるとは、考えもしなかった。
だが今とになって、私の中に次々と見当違いの感情が湧いてきた。
窓に首を伸ばしてもっとよく見ようとしたが、2人の姿は消えていた。
すでに家についていたからだ。
慌ててベッドを整え、鋭い痛みに耐えながら起き上がった。
本を取って読み始めたが、上下が逆さまだった。
ちらりと目を上げ、素早く向きを直したその時、ヘレナが入ってきた。
貪欲な猟犬さながらに彼女にぴったりと張り付いているのは、3つ揃いのスーツに口髭と片眼鏡という、気取った格好をした男だった。
「あら、本を読んでいたのね。何を読んでいるの?」
彼女が軽く私の方へ本を傾け、題名を読んでわずかに首を傾げた。
「へえ、高慢と偏見…ね。私の好きな作品だわ。」
私は本を閉じ、まるで伝染病の菌がついているとでも聞かされたように、それをテーブルに放った。
「ああ、まあ、寝てばかりいずに、本でも読まないとね。それに…古典文学はいいものだ。」
片眼鏡の男が焦ったそうに彼女を見た。
早くこの訪問の目的を果たしたい、とでも言わんばかりだ。
客用の寝室にいる怪我人など放って。
「パトリック、こちらはミスター・ダミアン・ウエブスターよ。アメリアからあなたに会いに来たの。理由は教えてもらえなかったけど。」
彼女は何か言いたそうに、眉をあげた。
「よろしく、ミスター・ピアーズ。あなたのお父上を存じ上げておりました。」
この男は彼女に気があるわけではなかったのだ。
待てよ…存じ上げておりま、した?
ウエブスターは私の戸惑いを見て取ったようだった。
「病院に電報を打ったのですが。受け取っていませんか?」
父は死んだのか。
だがこの男は、それを伝えにきたわけではないらしい。
ではなんだ?
私より先にヘレナが口を開いた。
「ピアース少佐は一月前から、ここにいるんです。病院には毎日山ほど電報が届きますし。それで、どういったご用件なんですか、ミスター・ウエブスター?」
彼女は真剣な口調になっていた。
ウエブスターが彼女を睨んだ。
おそらく女性から、こんな口の利き方をされることに慣れていないのだろう。
そんな男には、もっと言ってやってもいいぐらいだ。
「いくつかあります。まずはお父様の財産いついて。」
窓の外で1羽の小鳥が、噴水に舞い降りてきた。
チョコチョコと動き回り、水に頭を突っ込み、また上げたかと思うと、体を振ってあたりに水滴を飛ばした。
「父はなぜ死んだのですか?」
私はまだ小鳥に目を向けていた。
ウエブスターは、余計な用事はさっさと片付けたいとでもいうように早口で説明した。
「自動車事故です。お父様もお母様も即死でした。あれは危険な乗り物ですよ。一瞬ですから。お二人とも苦しまなかったことは確かです。さて…」
違う種類の痛みを感じていた。
心の中に埋めることのできない穴があいてしまったようで、寂しさと虚しさに押しつぶされそうになっていた。
母が死んでしまった。
すでに埋葬されたのだろう。
もう2度と母に会うことはできない。

続く…
コメント

とうとうイタリアでは死者の数が1日800人を超えたそうです。

2020.03.22.22:12

もう、今更、感染マップを見ても、驚くという状況を超えてしまいましたが、
ころ

日本は、最近やっとイタリアとイランの入国制限をしました。
これらの感染が拡大している国で流行中のコロナウイルス が、これから日本で感染していくと予想する専門家がいます。
さて、どうなることやら。
米国もイギリスも韓国も、他の国でも、国費で、次々に倒れていく国民の経済や企業の救済を始めたそうで、イギリスなどは、自営業者に、日本円で換算すると170万円の給付をするようです。
日本政府は、貸付金とか言ってますね。
本当に、自民党の今の政権はダメだな。

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