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日航123便墜落から33年、真相究明を続けた遺族が見つけた結論…だれが責任を取るべきか?

2018.08.07.12:25

1985年8月12日、日航123便が墜落した不可解の謎…自衛隊員二人が首つり自殺とは?


先日、この記事をアップした…
33年たってもいまだに解けない不可解すぎる墜落事件であった。

さらに調べていくと、この123便墜落の事件の前に、
1971年7月30日に起きた、「雫石事件」というものがあった。

雫石付近の上空で訓練中の2機の自衛隊機のうち一機が、全日空B727型機の尾翼部分に衝突し、両機ともに墜落したという事件だ。
自衛隊機のパイロットは、パラシュートで脱出したが、衝突された全日空B727型機は、空中分解し、乗員162名が地面に激突死亡するという大惨事となっている。

これは自衛隊機が、民間機が飛行する空域近くで演習を行うというずさんな訓練計画によって引き起こされた。
ところが、これほどの大事件でありながら、自衛隊機のパイロットと教官が、「見張り義務違反」で有罪となっただけで組織としての責任の追及は雲散霧消している。
結局、防衛庁長官だけが、責任をとって辞任するのだが、辞任したのは1か月前に就任したばかりの新任長官であり、実質的な責任を問うとすればそれまで自衛隊を指揮監督していた前任者だったが、たまたまこの事件の直前に退任していた。
それゆえ、この前任者は何ら責任を問われず、しかもその後、この1985年8月12日の123便墜落の時点での、内閣総理大臣であった。

それはいったい誰であろうか?
中曽根康弘氏である…
これを頭に入れておいて、さらに調べて行こう。


小田周二氏という次男と長女を墜落で失った遺族が、三〇年以上の歳月をかけて、執念の追跡調査を行い、書いた本、「五二四人の命乞い」という書籍からの抜粋である。

(注!私個人としては、これが真相であるとか、正しいとか判断する根拠を一つも持っていない。最終責任の持ち主がいるとすれば、中曽根康弘氏であるというのも、遺族である小川氏の結論であり、私は、ただただ、執念の追及を続けた遺族の調査の結果を、他の情報とすり合わせてみるのみである。)


時が立ち、その分様々な情報や異物が失われたものもあるが、逆に集められたものもあり、その断片であるピースをつなげていくと、浮かび上がってくるものがあるということを言われているのである。


^^

以下抜粋である。


異変がおきる直前、一二三便の窓外を飛ぶ、オレンジ色のロケットのようなものが撮影されている。
この撮影された方は亡くなったが、遺族は残されたカメラに、不思議な飛行物体の写真もあったということを知らされている。
遺族は早速、その写真をマスコミに公開したいと考えた。
しかし群馬県警がそれを制止した。
このフィルムが遺族のもとに返されたのは、五年の歳月を経て、前橋地検の不起訴が確定した後のことであった。
何故前橋地検は、日本航空、ボーイング社、運輸省の関係者を遺族たちが告訴していたが、不起訴としたのか。
理由は、「事故調がまとめた報告書から導かれたこの3者に責任があるという立件は不可能だと結論した。」からだ。
では誰が責任を取ったのか?誰も責任を問われてはいない。

5年を経てマスコミに公開された写真は、当時の技術では解析できず、写り込んでいる点影が何であるか議論は深まらなかった。
しかし、25年を経過し、進化したデジタル技術を使ってこの写真が分析しなおされた。

「黒っぽい円形の塊の領域内は、中心から右側へ帯状、もしくは扇状にオレンジがかっているのがわかります。円錐、もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、物体はオレンジ体の方向から、飛行機の進行方向へ向かっているように見える。

こう分析されているという。


墜落事件のあった1985年8月12日、静岡県の沖合では自衛隊によるミサイル訓練が実施されていた。
無人標的機と呼ばれる訓練用のジェット機が使用される。
当時の自衛隊は、「フィアビーとチャカ2」というリモコンで操作される、オレンジ色のロケットに似た円筒形の小型ジェット機を用いていた。
とはいえこれらの無人標的機にミサイルを直接ぶつけるのではなく、その後部に鋼鉄製のワイヤーの先にトービーと呼ばれる曳航標識、つまり吹き流しのようなものを付けて飛び、それをめがけてミサイルを撃つのである。

これに関して、大変重要な事柄が新聞に載っていた。
朝日新聞の「財産の守りは薄い防衛庁」と題した記事で、税金で購入した兵器や備品をなくしたり壊したりしたゾンザイさが、際立って全省内の中で多いという内容だった。
そこには、防衛庁の財産亡失の典型として、吹き流しを狙うはずの高速標識機を、実際に撃ち落してしまった、と言う事例が紹介されていた。
記事は、85年11月から86年10月までの1年間の亡失に関して報じている。
これは、関連が全くないと言えるのだろうか?
是非、防衛庁に聞いてみたいものだ。

また、別のパズルのピースもある。
航空自衛隊の基地司令官から、戦時に同じ部隊の戦友で会った男性にかかってきた電話の話である。

1985年8月12日、123便が墜落したその日、この司令官は元戦友にこう語った。
「えらいことをした。標識機を民間機に当ててしまった。いま、百里基地から偵察機2機に追尾させているところだ。」
この言葉こそ、123便が墜落した原因が何であったか、雄弁に物語るものと言えるのではないだろうか。
つまり発端は、オレンジ色に塗装された自衛隊の無人標的機の衝突だった。

123便の機長は、元海上自衛隊で航空機の操縦を学び、その後東亜国内航空を経て日本航空に移籍している、
つまり元自衛隊で戦闘機に乗ったこともある人物であるということだ。
彼は、この衝突があった際、11秒後には、手元のトランスポンダと言う信号機器に数値を入力し、「スコーク77」と呼ばれる緊急事態を告げる信号を発信している。
このコードである「77」とは、「要撃された」と言う事態を意味する遭難信号であった。
機長は、離陸し飛行中に、この空域で何かが行われているのを目視していたのかもしれない。
ためらうことなく、要撃された、と発信しているのである。

これは著者の推測である。

追尾していた2機の自衛隊機から、標識機が民間機に当たり、オレンジ色の塗料が付いているのが見えると報告を受けた部隊の指揮官から基地司令官、防衛長官から内閣総理大臣まで顔面蒼白になった。
雫石事件のこともある。
一刻も早く対応を考えなければならない。


この当時、123便を追う戦闘機の姿は、山梨県大月市をはじめ様々な場所から確認されているのである。
これに関して嘘は付けないのである。

無人標的機の衝突によって機体後尾部分を垂直尾翼もろとも破壊され、油圧系統を全喪失した機体。
それでも123便は飛び続けていた。
機長の必死の操縦は続く。

この場合、2つの方法が考えられる。
一つは、無人標的機が民間機に衝突してしまったことを直ちに公表し、最善の処置と対策、支援と救援を行うという選択。
もう一つは、衝突事故そのものを徹底的に隠すこと、事故の証拠となりそうなことをすべて消し去ることである。
もし、救援し乗員が生還した場合、どのようなことが起きるのだろうか。
自衛隊と自民党政権は大打撃を受ける。
この時、報告を受けた最高責任者は、一体どのような結論を出したのだろうか?

この時、彼らとは別に空の上に目撃者がいたのである。
それは一機の米軍輸送機C130Hであった。
マイケルアントヌッチ中尉は、交信にあたりながら、日本の民間機123便が「スコーク77」を発信しているのを知る。
以後、彼は横田管制と連絡を取るかたわら、自分が傍受していた123便と東京管制の会話が日本語に切り替わったのに驚いた。
通常英語が用いられる。
日本語で会話せねばならぬほど、切迫した事態に見舞われていると彼は思った。
直後、横田管制が123便に重要な呼びかけをしているのを聞く。
10年後に彼は、新聞や空軍機関誌に投稿した自分の記事でこう述べている。
「私達は横田管制が、123便に同基地への着陸を許可するのを聞いた。」
さらに続ける。
「めったにないことだが、パイロットは米軍基地への着陸を希望したのだ。」

機長が「羽田へ引き返したい」と東京管制に連絡したのは18時25分だった。
しかし羽田は過密で緊急着陸できる体制にない。
機長は横田を選択した。
その横田管制は、「スコーク77」を発信しながら飛ぶ123便の危機を知り、着陸許可を与えた。
アントヌッチ中尉が傍受したのはこの交信だった。

このとき、着陸態勢にあったのは、乗員も同様であった。
膝の間に頭を入れて両足首を掴むという安全姿勢をとって着陸に備えている。

ここで謎があるのだそうだ。
公式に事故調から出されたボイスレコーダーの記録に、横田と123便で交わされた会話が存在しないのである。
では、横田と123便の間に交信はなかったのかというと、123便の針路が横田からそれ始めると、横田管制から123便に交信を促す呼びかけが繰り返し登場してくる。
10回以上に及ぶ呼びかけは、当時の横田管制が救出のために必死になっていたという事が伺える。

ではなぜ、アントヌッチ中尉も聞いていた交信、そして横田基地からも必死でよびかけていたのに、両者の間の交信が消えているのか?
それを知られたくないものがいるからだ、と著者は言う。

123便は着陸体制に入っていた。
ところがその直後、18時46分、機長が無線の向こうの誰かに懇願するのを聞いた。
「このままでお願いします。」
また繰り返して懇願する声。
「このままでお願いします。」

この声は記録されており、消されてはいない。
機長は誰に必死でお願いをしていたのだろうか?
機長が話をしていた者の声は記録されていない。

この時、東京管制は、機長が話をしていた声を聴いていない。
理解しかねた東京管制が、「コンタクトしますか」とかみ合わない言葉を発している。

機長は「このままでお願いします」とまた言った。
話がかみ合っていない。
東京管制は、「はい、了解しました」と言っている。
恐らくコンタクトの必要はないと返事をしたと解釈したと思われる。

また機長は、「このままでお願いします」と言った。
それから、ポツリと言う、
「これはだめかもわからんね」と言う言葉で締めくくっている。
この間、機長は、東京管制ではない誰かと、交信していたのである。

著者は、この時、機長が続行しようとしていた、横田基地への着陸を顔の見えない相手から、拒絶されたのだと言っている。

この時の123便が横田基地へと向かう様子は目撃されている。
角田四郎氏は身延山の近くにいたそうだ。
123便は大きく旋回しながら、横田へ向かう場面だった。
彼は、「東の方向にある横田基地に着陸するのでは」と、思ったという。
また、角田氏は、もう一つ重要なものを目撃している。
123便を追うように飛んでいく2機の自衛隊戦闘機の姿だ。

この時、この2機の自衛隊機は何をしていたのだろうか?
そしてなぜ、横田基地と123便の交信記録が消えているのだろうか?
そして機長が、「このままでお願いします」と懇願していた相手は誰だったのだろうか?

奇跡的に生還した4名の中に落合由美さんがいた。
彼女は客室乗務員であり、この日は乗客として乗り合わせていた。
彼女とアメリカの国家安全委員会のインタビューでのやり取りから、圧力隔壁は破壊されていず、急減圧も起きていなかったと想定された。
しかし、事故調は、「圧力隔壁の破壊で機体が損傷し、操縦不能に陥って墜落した。と結論している。
また、ボーイング社であるが、「隔壁の修理ミスを犯したことは認めたが、圧力隔壁が破壊されても、垂直尾翼は破壊されない」と、堂々と主張している。
そして、事故機が推力レバーを操作することによって、操縦できたことは明らかだとまで主張しており、事故調のシナリオを否定している。

失われた垂直尾翼のごく一部は数か所から見つかっているが、全体の7割は、APU・補助動力装置と共に相模湾海底に沈んでいると考えられている。
それを引き上げて、復元し損傷具合を分析すれば、真実は明らかになる。
ところが、当時の中曽根政権は、海底探査を早々に打ち切り、残骸も未回収のままである。
それはなぜだろうか?

1985年8月12日19時ころ、つまり横田基地着陸を果たせなかったそのあとのことである。
長野県南佐久郡川上村。
数人のレタス畑で作業していた農夫が、突然大型ジェット機が姿を現すのを見た。

ほぼその真上をかすめ、石を投げたら当たるのではないか、と思えるような低空飛行だった。
機長はこのレタス畑に着陸を試みようとしていた、と想定されるのである。

しかし、事故調が報告書の中で発表した飛行経路図には、なぜか、123便は川上村上空を通過していないことになっているのだそうだ。
多数の村民がレタス畑の上を飛ぶ大型ジェット機を目撃しているにもかかわらずである。
ここで数回、機は旋回して何度も高度を上げたり下げたりしている。
しかし、農作業中の数人がいたために、断念したのではないかと言われている。




疲れてきたので、続きは後で書くことにする。

続く→
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