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墜落した日航123便に何が起きていたのか?「524人の命乞い」より

2018.08.07.12:49

前回の続きです。→



奇跡の生還者4名は、機体後部に座っていた。
極限まで窮屈な空間に閉じ込められながら、生還者たちは救出されるまでの間に多くのものを見聞きしていた。
墜落直後の生存者は、この4名だけではなかったのだ。

当時12歳だった川上慶子さんはこう述べている。
「墜落したあと、ふと気づいたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。」
「気が付くと子供の泣き声などがざわざわと聞こえてきた。私が叫ぶと父と妹の咲子が返事した。しばらくして父は動かなくなった。その後、咲子としゃべった。咲子はゲホゲホと吐いて、しゃべらなくなった。」

落合由美さんの証言
「墜落の直後に、荒い息遣いが聞こえました。一人ではなく、何人もの息遣いです。そこら中から聞こえました。まわり全体で、早く来て!と言っているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。」
「突然、男の子の声がしました。ようし、びくは頑張るぞ!と、男の子は言いました。学校へ上がったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。中略。私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聴いているしかできませんでした。」
この時点で、相当の数の人たちが生存していたのは間違いないでしょう。

飯塚訓氏の「墜落遺体ー御巣鷹の日航機123便」によれば、犠牲者の遺体を5対が完全にそろっている完全遺体と離団遺体に分けて検討している。
検視総数2065体のうち、完全遺体は177体。
このうちシートベルトの圧迫損傷や衝突衝撃、脳挫傷などで即死したのは千体であり、救助されずに死亡したのは、約50体に上るという。

では、捜索救援活動や報道はどのように動いていたのか?
墜落の後、19時05分には、航空自衛隊の百里基地から2機のF4EJ戦闘機が発進している。
21分には、F4EJから横田多感300度32マイル炎上中と言う報告が入り、45分には運輸省が対策本部を設置。
自衛隊は百里基地から救難機V107、次いで、救難捜索機MU2Sを相次いで発進させ、20時30分には現場上空に到着したとされる。
墜落の18時56分30秒の後、1時間33分後である。
そして報道は素早く特番に変更し、情報を流し始めていた。

しかし、いかにも素早く立ち上がったかに見える創作救援活動や報道だが、ここから激しく迷走を始める。
自衛隊が上空から測定したという位置情報は一定せず、地図上でどこなのか一向に特定されないという事態が起きてくる。
報道では、誤報が垂れ流されるのだ。

21時の時点で、長野県警は墜落場所が群馬得kンだと判断する。
朝日新聞社のヘリも墜落地点に赤い火を発見し、周囲に飛行機やヘリの衝突防止灯が光っているのを目撃した。
上空から撮影した朝日新聞社のヘリは、位置を測定して、底がやはり群馬県であるという結論を得ている。
ところが21時39分になって、NHKが「御座山中腹で煙発見」と言う報道を始めた。
この場所は、実際に123便が墜落した御巣鷹の尾根とは県境を挟んで7キロも離れているのである。
さらに56分になると、自衛隊幕僚幹部も運輸省に対して、墜落場所は「御座山北斜」と連絡。
このころには日航も同じことを発表し始めた。
一方先ほどの朝日新聞社のヘリは、日付が変わるころ、改めてそこが群馬県側であることを計測している。
長野県警も「墜落場所は群馬県内と判断」と発表し、読売新聞朝刊は「御巣鷹山付近に墜落」と見出しを打った。
しかしNHKは、13日03時45分段階でも、「御座山南斜面」と執拗に報道し続けた。
これで多くの人が、墜落場所ではない長野県へ赴くことになった。

防衛庁が三国山北西約2キロで機体発見と発表し、陸上自衛隊のHU1からの現場撮影がされたのは、翌日の13日04時55分のことだった。

不可解な遅延である。
捜索活動にはさらに時間がかかり、墜落から16時間も過ぎてからのことだ。

このような誤報は、本当に測定誤差だったのだろうか?
「自衛隊は戦闘集団です。こんないい加減な目標地点の測定では、味方陣営を誤爆することになりかねません。それでは戦争などできません。」とある自衛隊幹部は語る。
「何か隠された意図があるんですよ。」とも語った。

真っ暗な山の夜。
苦し気な呼吸の音がいくつも折り重なって聞こえる中、不意に、ヘリコプターの爆音が響く。
落合由美さんは語る。
「やがて真っ暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえました。それもすぐ近くです。これで助かると、私は夢中で右手を伸ばし、降りました。けれどヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。一生懸命手を振りました。助けて!誰か助けて!と、声も出したと思います。ああ、帰っていく‥」

この時のヘリコプターが、その所属機だったかは長く謎とされた。
このため、墜落当日の夜に自衛隊が創作救援活動を一切行わなかったことは、早い段階から批判された。
自衛隊は、様々な言辞を弄して言い訳に努めたらしい。
しかし、その嘘が明るみに出たのは10年後のことだった。

アントヌッチ証言と言うのがある。
前回も紹介した空の上で、123便を見つめていた米軍航空機の搭乗人物である。
その証言によれば、米軍へリが墜落間もないころ、捜索救助要員を墜落現場に降下させようとしていたのである。
「横田基地所属のC130H輸送機で飛行中のアントヌッチ中尉は、非常事態に陥った123便の通信を傍受し、横田基地への着陸許可を求め許可されたのを知っていた。
ところが基地には着陸することが出来ず、飛び去ったのを見守っていたのは前回に既述したとおりである。
やがて19時ころ、横田管制から123便がレーダーから消えたという知らせが入り、中尉らは123便を捜索できないかと打診してきた。
中尉の乗るC130Hはこの時から123便の捜索を始め、19時15分に墜落から20分後に早くも、煙の上がる墜落現場を発見した。
C130Hは上空を旋回し、位置を報告している。
情報は横田基地から日本の当局にも伝えられ、知っていたのだ。
無論、追尾していた自衛隊の2機のファントムは当然していたということだ。

中尉の乗るC130Hに連絡が入った。

座間基地の陸軍ヘリUH1が救難に向かう準備をしているという。
やがてヘリは現場に到着、21時05分には兵士の降下に取り掛かった。
旋回して様子を見守るアントヌッチ中尉は、ヘリに変わり現場の状況を報告する。
ところがここで思いもよらないことが起きる。
日本側が救助に向かっているから、直ちに基地に帰還せよというのだ。
すでにヘリはロープをたらし、要員は降下を始めたところだ。
こうしてせっかく救援に当たろうとしていたC130HとUH1は撤収した。
一体、誰が、待ったをかけたのだろうか?
まもなく、最初の日本の飛行機がつらく現場上空に現れ、横田管制はそれが日本側の救難機だと伝えてきた。
アントヌッチ中尉は安心して引き上げた。
しかし、その後彼が知ったのは、一安心どころの事態ではなかったわけだ。

司令部に一連の経過を報告すると、ジョエルシルズ副司令官は
「マスコミには一切他言無用」と言い渡される。
そののと、アントヌッチ中尉は、報じた記事を読み生還した落合さんの証言を知り、大きなショックを受ける。
飛んできたヘリに合図をしたが去って行ったと証言されているそのヘリが、自分たちであると知ったからだ。
彼の胸の良心の呵責は消えなかった。
そして軍籍を離れ1男0年後の95年8月「サクラメントビー紙」に手記をまとめて発表した。
その内容は、米軍の準機関誌「星条旗」紙に転載された。

それは日本のテレビなどでも報道され、大きな波紋が広がった。
隠しきれなくなった中曽根康弘氏は、「米軍アントヌッチ中尉の救出活動は知っている」と語った。
しかしすでに彼は退任しており、ここでも責任を問われることはなかった。

おかしな話である。
米軍側に日本側が救出すると伝えておきながら、翌日になるまで救出活動を行っていないのである。

群馬県警本部は、8月12日21時、県警幹部につらくしたと思って行動してくれと訓令し、22時には上野村に現地対策本部を開設している。
とすると、早い段階から、墜落現場を知っていたという事になる。

土地勘のある住民たちは、墜落地点をほぼ確信していた。
12日夜、上野村に入ってきた群馬県機動隊は、住人に道案内を求めた。
仲の沢へ行く道案内だ。
しかし住民は墜落場所はスゲの沢だと進言した。
機動隊はそっけない態度であくまで中の沢を捜索した。
このころ、同じ上野村の消防団のメンバーたちは、自分たちでスゲの沢を創作しようと話し合っていた、県警はこれにも待ったをかける。
県警と消防団との怒鳴りあいになり、朝に4時に年長の団員たちが県警の制止を振り切って救助に向かっている。
それから数時間後に、群馬県警ではなく、長野県警が派遣したレスキュー隊員とともに、川上慶子さんを発見している。
それがこの写真である。

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墜落の翌日、8月13日、現場に自衛隊の習志野空挺団が到着したのは、8時49分だった。
9時30分には73名が現場に降下し、前後するように陸上自衛隊松本連隊の14名、長野県レスキュー部隊2名、上野村消防団などが陸路現場にたどり着いている。
群馬県警が現場に赴いたのは、10時15分になってからだった。
時間がかかりすぎてはいないだろうか?
生存者を発見したのは、上野消防団と長野県警のレスキュー隊であり、最も大きな部隊を派遣し、先に現場に到着した自衛隊はほとりの生存者も発見していない。
習志野空挺団は「生存者無し」と報告を続け、早くも「乗員全員死亡、救助打ち切り、遺体回収」を命令したという。
4名の生存も、長野県警や上野村消防団の活動がなければ、どうなっていたのだろうか?

そして妙なことに気づくのだ。
生存者の応急処置に当たったのは、あとから駆け付けた赤十字の医師と看護婦だ。
しかし墜落現場にはとっくに自衛隊が到着している。
すぐにでも応急処置はできたはずだ。
最初から生存者を想定していない、ということになるのではないだろうか。


日航123便墜落 遺物は真相を語るの著者、青山氏は、遺体の現場から発見された歯型の確認を行った医師にインタビューを重ねている。
123便の墜落現場での遺体は、骨の奥まで炭化するような燃え方で、まるで2度焼きしたような状況だったという。
墜落現場の木々は幹の中まで燃えていないのに、痛いだけは骨の芯まで燃えているという不思議な現象がみられたことを語っている。

著者は、これを自衛隊の特殊部隊による生存者殺戮の省察行為だったのではないかと語る。
特殊部隊は毒ガスによる殺害のあと、遺体をスゲの沢から火災現場に移して、火炎放射器で焼き殺したと推察される。

さらにに不可解なことがある。
8月13日の日経新聞には、生存者7名発見と報じられた。
その4名以外の3名について、朝日新聞社は無線で報告している。、
「いまさらに3名の生存者救出!2名はタンカに乗せられているが、1名はタンカが必要ないほど元気な女の子で、救助隊員に抱かれている。」
この報告について、朝日キャップの木村氏は、
「1人の女の子はタンカに載らないほどの元気で、救助隊員に抱かれている。他の二人は毛布をかぶされているため、男女の別やけがの程度ははっきりしないと報告。だがその後、その女の子はどうなったのか?フジテレビの「ニュースレポート」生放送でも、生中継のアナウンサーが、「現場は惨憺たる状況です。間もなくタンカに乗せられた少年が運ばれてきます」と語った。
その後、この少年い対する報道は途絶え、神隠しにあったように消息は出てこなくなった。
いったい、誰が連れ去ったのであろうか?

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123人墜落から1時間余りが過ぎた8月12日、20時ころ、上野村「三岐」には、総勢千名になる自衛隊の一段g集結していた。
21時30分過ぎ、尾根のある方向から信号弾が上がった。
集結していた部隊は整然と行動を開始した。
21時30分とは、アントヌッチ中尉が上空から撤退させられた時刻だ。
この自衛隊の一団の目的は何だったのだろうか?
著者はこれらを特殊暗殺部隊と呼ぶ。
彼らを山中で目撃したM氏の証言が、「疑惑」と言う著書の中で語られている。
墜落を知ったM氏は、オフロードバイクで現場に向かう。
翌朝の4時ころ、現場に到着したM氏は、ここで千人ほどの自衛隊員を目撃している。
暗視ゴーグルを装着し片手にはアーミーナイフ、後にやってきた一般の自衛隊とは明らかに異なるいでたちだった。
彼らはしきりに何かを回収し、袋に詰めヘリで釣り上げている。
M氏は、たどり着いた時、現場で40~50名のうめき声を聞いている。
所が現場の自衛隊員は、歌詞集には熱心だが、生存者には手当もしないし目もくれない。
それを見たM氏は不審に思った。

「自衛隊のひとたちがいる以上、自分が出来ることは、呻き声のするあたりを探しては場所を教え、早い手当を頼んでいました。ただ対応には不信感を覚えました。下手に動かすと危険だから、あとから部隊が来て手当てすることになっているというだけで、全く何もしようとしない。」
山を降りる頃には、大勢の生存者のうめき声が一つも聞こえなくなっていたという。
このM氏が見た出来事は、生還した川上慶子さんが語った証言を思い出させる。
「墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちで埋めき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。
しばらくすると、前方から懐中電灯の光が近づいてきて、助かったと思った。
また意識がなくなり、次に目覚めると、明るくなっていたが、救助の人は誰もいなくなっており、周りの人はみな死んでいた。」

この何かを回収してヘリで運び出していた自衛隊員の姿は、別の人物にも目撃されている。
深井教授は、13日朝7時ころ徒歩で現場に到着した。
彼は手記の中で、遺体が散乱する現場の状況とともに、夜が明けているにもかかわらず捜索救助が行われていなかったと指摘する。
現場は無人ではなかった。
南側斜面で活動する自衛隊員たちを目撃したのだ。
後に生還者がヘリで輸送されたのは午後になっての話で、教授が目撃したのはそれとはまったく別のヘリだ。
現場には早い段階から自衛隊が乗り込み、救助活動とは全く別の活動をしていたことがわかる。
その間、人の目を別の場所に向けておく必要から、誤報が流され続けたと著者は言う。

見られてはならないものを回収し、いてはならない生存者を消すための時間。
その工作は、救助活動に向かおうとしている一般に自衛隊員たちにも向けられた可能性がある。
123便が墜落して1時間ほどが過ぎた20時ころ、NHKに臨時ニュースが流れた。
全国放送の待っ最中、「自衛隊員が射殺された」と伊テロップが流れたのだ。
その後、長野県警の発表として、「数名の自衛隊員が射殺」と言う報道もなされた。
のちにこれは誤報として取り消された。

当時、捜索救助活動を担う、一般の陸上自衛隊員達は朝までの待機を命じられていた。
これらの情報から見ると、それでも救助に向かった一般の自衛隊員たちを射殺したのは、これら先に現場に到着し、救出活動など一切行わず何かをせっせと回収していた部隊であると推測される。

またこの時、東京では、自衛隊と警察が墜落地点の管轄権を巡って争っていた。
本来管轄権は警察にあることは、警察法で決まっているのだが、123便ではいち早く、救助をしない自衛隊が派遣されており、現場の実質的な管轄権を握って行動した。
当時、自衛隊が災害派遣を巡って動くためには、県知事からの要請が不可欠であり、規則に忠実な自衛隊は自らの意志で、部隊を派遣したことはなかった。
ところが123便の事件の時だけは、陸上自衛隊幕僚長が、災害派遣を独自の判断で決定したと報じられている。

以下略

詳しくは書籍をご覧ください。

^^^

さて、ここまで「524人の命乞い」から抜粋して転記して来ましたが、皆様はどのように感じられましたか?

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この人たちは、一体何をしていたのでしょうか?
そして本当に日本の自衛隊だったのでしょうか?

写真は、「新日本の黒い霧」さんからいただきました。


1985年当時の日本を取り巻く状況…
80~90年代に暗躍していたオウム真理教…
北朝鮮との関連が伝えられて久しいです。
そして今のではない崩壊前の旧ソ連との関係…

中曽根康弘氏は何をしようとしていたのでしょうか?
そして、周辺にいた政治家たち、北朝鮮もうでを行った政治家たち…
こういった想像をすることもできます。

当時相模湾で海上自衛隊が訓練を行っていた。
これの発端を作ったのはリモートコントロールされた無人標的機である。
これは偶然、123便に当たったのではない。
初めから撃墜する目的で当てられた。
しかし、残念ながら航空機は海に墜落したりしなかった。

百里基地から飛び立った2機のファントムであるが、百里基地は航空自衛隊である。
海上自衛隊である無人標的機を飛ばした事情を知ってはいなかったと言えるかもしれない。

2機のファントムは命令通りに、123便を追尾し続ける。
123便は、何とか横田基地へ着陸をしようとしていた。
横田基地も何とかして123便を救援しようとしていた。
それに待ったをかけたのは、誰だろうか?

もし…
初めから仕組まれていたとしたら…
この事件の後、日本は失われた20年と言われる停滞の時期に入り、北朝鮮には大量の日本人を拉致され、プラザ合意を飲まされ、日本版OSであるトロンの開発発売は出来なくなり、プラザ合意に反対していた政治家4人は全員死亡した。またグリコ森永事件と関連があったと思われる会社の社長が死亡。
それらを完全、抹殺を仕組んだものがいたとしたら?

その国の指示を受けざるを得ない状況があり、中曽根氏がいやいや応じて許可をしていたのだとしたら?
某米軍基地には、北陽線の平壌へ行く直行便があり、その表示が撮影されています。
平壌からも同じです。
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さて、もし…
この状況の中で、完全に抹殺したいものがいて、それを企んだ者たちが、一般の米軍基地、一般の自衛隊のあずかり知らぬところで、一連のことを実行したとしたら…?
そして日本の国内に米軍基地があるように、日本の国内に北朝鮮の軍基地が隠されており、そこから、日本の自衛隊に偽装した軍隊が出動しているとしたら…?

頭いいでしょう?
当たっているでしょう?
なんてすべて、妄想ですが‥

日本もま~ったく、美しい瑞穂の国などではない、恐ろしい闇に包まれている国であると言えるのではないだろうか?
最近、保守系ブログや動画が次々封鎖されて行っているが、その裏にも何かあるぞ。
ナショナリズムになられると困る勢力がいつのかも、知れない。

言っておきますが、私は反米ではありません。
そして、この事件は三十数年も前のすでに時効が成立している事件です。
あの時とは、米国も日本も、北朝鮮も事情が異なります。
すでに、米国は軍産の支配から抜け出そうとして、トランプ氏がもがいています。
現在の米国とは、しっかり協調していくべきと思っています。

同じに考えることは愚かなことです。
中曽根氏は、当時の状況の中でできうる最善を行ったのかも知れないしそうではなかったのかも知れない。
我々には、部分が見えるだけで、全体を見ることは出来ません。
それゆえ、妄想するしかないのです。
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