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第二進化・アトランティス・ジーン(1)A・G・リドルー43

2020.03.24.22:46

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チベット自治区 イマルの寺院
ミロは翌朝も昨日と全く同じ姿で、ケイトを待っていた。
いったいいつから、ああしてじっと座って待っているのだろう?と、ケイトは思った。
起き上がってみると、やはり昨日と同じ場所に朝食の鉢が置かれていた。
2人は朝の挨拶を交わし、ミロがまたデヴィッドの部屋へケイトを連れて行った。
日記はベッド脇のテーブルにあったが、それを無視してまずはデヴィッドの元に行った。
抗生物質を飲ませ、肩と足の傷を調べた。
夜のうちに傷を縁取る赤い輪が広がり、胸や太腿の上部にまで達していた。
ケイトは頬の内側を噛み、窓の外を見つめた。
「ミロ、あなたに手伝ってもらいたいの。とても重要なことよ。」
「最初に会ったときに言いましたよ、マダム。」
ミロがまたお辞儀をした。
「ミロはあなたのお世話をするためにいるのです。」
「あなたは血を見ても、平気な方?」

数時間後、ケイトはデヴィッドの肩にしっかりと包帯を巻きつけていた。
テーブルの鉢には血と膿がたまり、血を吸ったガーゼも山と積まれていた。
オペ室看護師とまではいかないものの、ミロの働きぶりは見事で、とりわけ彼の何事にも動じない精神力がケイトの神経を鎮めるのに、大いに役立ってくれた。
包帯を巻き終えると、ケイトはデヴィッドの胸を撫でて、深いため息をついた。
あとはもう、待つことしかできない。
アルコーブの壁に寄りかかり、デヴィッドの胸の上下運動を見つめた。
注意しないとわからないほど弱い動きだった。
やがてケイトはまた日記を開いて、読み上げ始めた。

1917年6月3日

「これはどうかね?」
ドクター・カーライルは、ペンで私の足を押しながら言った。
「ええ。」
私は歯を食いしばって答えた。
彼がペンを下の方へ移動させ、また突き立てた。
「ここは?」
「舌打ちしたいぐらいです。」
彼は体を起こし、触診の結果について、黙考し始めた。
脚を見る前に、彼は時間をかけて背景を聞き取っていた。
これは戦場の軍医とは違う、歓迎すべき行動だった。
軍医は人には目を向けずに、傷だけを見て、大抵は一言も口を聞かずに治療するのだ。
私は自分が26歳であること、他に悪いところはなく、何かの依存症でもないこと、そして、西部戦線のトンネル崩落でこの怪我を負ったことを話した。
彼はうなずき、入念に診察してくれた。
自分の病院に来る坑夫や運動選手の怪我と、それほど違いはないとも言っていた。
私は何か言うべきだろうかと思いながら、じっと彼の診断を待っていた。
都会の医師が頭をかき、ベッドの傍らに腰を下ろした。
「そうだな、私も軍医の意見に賛成だと言うしかなさそうだ。そのときに切ったほうが良かったかもしれない。膝から下だけだがね。少なくとも、私ならそこから始めたよ。」
「それで今は、どう言う状態ですか?」
答えを聞くのが怖かった。
「今はなんとも言えないな。もうその足で歩くことはできないだろうし、できても普通に歩くのは無理だろう。問題は君がどれだけ痛みを感じるかなんだ。神経がかなり損傷を受けていることは確かだからね。今後できる範囲で、歩いてみることを勧めるよ。1、2ヶ月は試してみるといい。もし痛みが耐えられないようなら、まあ、そうなるとは思うが、膝から下を切断しよう。痛みは足に集中しているようだし、元々神経が多い場所だから、切除すればいくらか楽になるだろう。」
私の悲観を見越したのか、彼はこう付け加えた。
「無論、痛みさえ解消すればいいと言うものじゃない。喪失感という問題もある。誰だって足の半分を失うのは辛いだろう。だが、それで自分の価値が減るなどと言うことはないだよ。現実的に考えることが重要だ。きっといつか自分に感謝する日が来る。残る問題は、今後どう言う仕事をするかだろうな。大尉、いや、少佐だったかね?君のような若い少佐は見たことがないものだから。」
「周りの人間が皆死んでしまえば、誰でも早く出世しますよ。」
私は言った。
もう一つの問いに答えるのを、先延ばしにしたかったのだ。
あの崩落以降、まともに向き合うことを避けてきた問題。
私は鉱山しか知らない人間だ。
「まだ何をしたらいいか、わからないんです。歩けるようになったあと。」
それが咄嗟に出てきた言葉だった。
「君にはデスクワークのほうが、その、体質として合っているだろうな。もし見つかればだが。」
彼は頷いて、立ち上がった。
「では、もう何もないようなら、また1ヶ月後に電話か手紙をよこしなさい。」
そう言うと、ロンドンの住所が書かれた名刺をくれた。
「本当にありがとうございました、ドクター。」
「まあ、バートン卿の頼みとあっては断れないさ。彼とはイートン校時代からの仲なんだ。おまけに君は戦争の英雄で、彼のお嬢さんがどうしてもと言って譲らないと言うじゃないか。私が診察しないと、お嬢さんが傷つくかもしれない、などと聞かされてはな。翌日には汽車に飛び乗っていたよ。」
廊下の方で大きな音がした。
誰かが棚から物を落としたような。
ドクター・カーライルも私をちらりと振り返ったが、どちらも何も言わなかった。
彼は黒い鞄を持ち上げた。
「包帯の巻き方はヘレナに教えておく。幸運を祈るよ、少佐。」

1917年8月5日

2ヶ月が過ぎ、私が歩くようになって一月がたった。
とは言っても、ほとんど引きずっているだけなのだが、しかも、調子がいい日には杖を使ってノロノロ進める、と言う程度でしかない。
1週間前にカーライルが来て、私の情けない姿を見て言った。
彼はヘレナの隣に立ち、犬の品評会にいる得意げな飼い主のように、私に声援を送った。
いや、これでは不当な言いがかりだな。
それに意地が悪い…彼はひたすら思いやりを示してくれていると言うのに。
鎮痛剤。
これを飲むと痛みも何もかも鈍くなる。
思考も含めて。
効いているときには感情に振り回されずに済むが、切れると蜂が一斉に襲ってくるような苦痛がある。
内なる戦争を戦うと言うのは、一種の拷問だ。
これならドイツ皇帝の臣下を撃っているほうが、よほどマシかもしれない。
少なくとも自分の立場がはっきりしているし、前線から退けば休息を取ることもできるのだから。
鎮痛剤を口に放り込み、足を引きずりながら歩く数週間の間に、私には新たな恐怖が生まれてしまった。
私の背中に覆いかぶさり、痛みを消せとひっきりなしに命じてくる獣を、一生追い払えないのではないかと言う恐怖。
薬が必要だし、ないと我慢できないし、我慢したとも言えない。
アヘンという悪魔を手放したあと、私には二つの支えが必要になった。
一つは足の傍にあり、もう一つはポケットに入っている。
カーライルはうまく歩けるようになるには、脚との付き合い方を覚えることが不可欠だと言った。
そして鎮痛剤の服用量を最低限に設定した。
全く、口で言うには簡単だ。
しかしここに来て数ヶ月の間に、私が最も執着を抱くようになったのは、鎮痛剤ではなかった。
彼女は今まで出会ったどんな人間とも違う。
ここを出る日や別れを告げる日のことを考えると、恐ろしくなる。
自分の望みならわかっている。
彼女の手をとって船に乗り、ジブラルタルからも戦争からも、過去からも遠く離れて新たなスタートをきりたいのだ。
どこか安全で、世界のことなど何も気にせずに、子供たちを育てられるような場所で。

もうすぐ3時になる。
今日は朝から薬を飲んでいない。
彼女と話すときは頭をはっきりさせておきたいからだ。
たとえ足が痛くても、心が痛んでも、何一つ見逃したくはない。
意識を研ぎ澄まさせる必要があるだろう。
禁欲主義と渇いたユーモアのセンスを持つイギリスで育ったからなのか。
それとも、感情的になればそれが伝染病のように広がって、危険をもたらす兵站病院という場所で2年間も働いているからか。
とにかくあの女性は、ほとんど感情を表に出さないのだ。
笑うし、微笑むし、生き生きとしているが、我を忘れるようなことは決してない。
口を滑らせることも、思わず顔色を変えてしまうようなこともない。
もし私に対する彼女の本当の気持ちがわかるなら、残っているもう1本の足だって差し出すだろう。
ずっと自分のできることを考え、準備も整えて来た。
あの忌々しいダミアン・ウエブスターがきた翌日、私は手紙を3通書いた。
1通目はチャールストンのファースト・ナショナル・バンク宛で、父の口座の預金をエルキンズのウエストバージニア養護施設に寄付する旨を伝えるものだった。
2通目は養護施設に送り、寄付する予定があることと、もしその遺産が届かなければダミアン・ウエブスターに連絡しろということ。
さらに最後に口座を任されていたのは彼だということを伝えておいた。
彼らはちゃんとお金を受け取って欲しかったのだ。
そして3通目は、私の預金があるチャールストンのシティ・バンクに送っていた。
返事は1週間半後に届いた。
それによると、私の口座の残高は5752ドル34セントで、手数料を払えば全額を銀行小切手にして、ジブラルタルに送ってくれるということだった。
銀行は口座を解約するとなると法外な金を取ることがよくあるので、今回もそんな話になるとばかり思っていたのだが。
私は直ぐに返事を書いて礼を伝え、できるだけ早く銀行小切手を送ってくれるように頼んだ。
配達人が小切手を運んできたのは昨日のことだ。
私は軍からもわずかばかりの給料を受け取っていた。
隊から離れている間の給料は、その大半を軍が預かるものなのだが、それを全て払ってもらったのだ。
私は先週名誉除隊になったので、軍から送られてくる金はそれが最後というわけだった。
そんなわけで、私の手元には合わせて6382ドル79セントの金が揃っていたが…そんな額ではとても結婚して食べていくことなできない。
座ってできる仕事を見つける必要があった。例えば、銀行や投資関連の仕事で、鉱山や軍用品に関わるのであれば、私にもできるかもしれなかった。
だが、その種の仕事につける人間は限られている。
適切なコネを持ち、適切な教育を受けていなければならないのだ。
もし私に資金があれば、自分で事業を始めることもできるだろう。
そしえ、いくらか幸運に恵まれ、うまく鉱脈を…石炭や金、ダイヤモンド、銅、あるいは銀でもいい…堀り当てられれば、もう金の問題で悩む必要はなくなるだろう。
目標金額は2万5千ドルだった。
失敗できる余裕はほとんどない金額だが。
ヘレナがドアを開ける音がした。
彼女を迎えようと、小さな控えの間に行った。
看護婦の制服に血が飛び散っており、その姿が、私を見た途端に浮かべた彼女の優しい笑顔を奇妙なほど際立たせていた。
彼女の微笑みが哀れみによるものなのか、幸せから生まれるものなのか、それがわかるならどんなものでも差し出すだろうに。
「起きていたのね、この服のことは気にしないで。直ぐに着替えてくるわ。」
そういうと、彼女は急いで部屋を出て行った。
「ちょっとおしゃれをしないか。」
私は声をかけた。
「散歩をして、それから夕食を食べに行こう。」
彼女が寝室の戸口から顔を覗かせた。
「本当?」
大きくなった微笑みに、ほんの少し驚きが混じっていた。
「あなたの制服も出しましょうか?」
「ありがとう。でもいいんだ。もう制服に用はない。今夜は未来を見たいんだよ。」

続く→


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